NHKアナウンス室

アナウンサー仕事の流儀

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インタビュー 田所拓也

自分の声だけで勝負できるアナウンサーに。
02/05
自分がこの目で見たものを誰かに伝えたい。
  • 子どもころはどんなことに打ち込んでいましたか?

    小学校の1年から中学まで、剣道を習っていました。

    どうして剣道だったんですか?

    タイトルは忘れてしまいましたが、ある剣道マンガを読んでその主人公に憧れて「やりたい!」と(笑)。剣道は初段をとるまで続けました。

    剣道をやって何か得たものはありますか?初段以外に(笑)。

    剣道自体も好きだったのですが、あいさつや礼儀をしっかり教え込まれたのはよかったと思います。人として、背筋がピーンと通ったような気がします。

  • 高校生のときの部活は?

    高校のときは、部活ではなくアルバイトをやっていました。
    お金を稼ぐということはどういうことなのか?それを知っていたほうがいいと両親にもすすめられて近所のファストフードのお店で働きはじめました。
    高校時代と大学卒業前までやっていましたが、ちょうどそのころ父親も同じ系列の店で店長として働いていました。店舗は違いますが、父親の仕事の大変さの一部を僕も共有することができたので、家で食事をしながら仕事場の大変さや楽しさを2人で語り合うことができました。父子で共通の話題があるのは楽しかったし、父親も喜んでくれました。

  • アナウンサーになりたいと意識しはじめたのはいつごろですか?

    小さいころからよくしゃべる子どもだったので、母親に「あなたは、弁護士かコメディアンかアナウンサーがいいんじゃない」と言われていました。自分のことをよく知っている母親がそう言うのならきっとそうなのだろうなと、漠然と思うようになりました。
    その中でアナウンサーに決めたのは、中学2年のときに生徒会長に立候補したときの経験が大きかったと思います。選挙演説をしながら、自分の思いを言葉にして多くの人に伝えることの難しさや、伝わったときの同級生たちの変化を実感することができました。これが、最初のきっかけだったと思います。

  • その後、より目標が明確になったできごとは?

    大学のときに大相撲観戦に行ったことで、よりアナウンサーという仕事に憧れを持つようになりました。
    親戚に元小結の大徹関(だいてつぜき)、今の湊川親方の後援会をやっている人がいて、両国国技館に連れて行ってもらったんです。そのとき、目の前を通る力士たちの威圧感やびんづけ油のいい香り、ひたいに浮かぶ汗など、現場にいるからこそ感じられる臨場感や、力士たちの細かな表情を見ることができました。それは、テレビの映像を見ているだけでは決して分からないものでした。
    そして“自分が今、目の当たりにしたものを誰かに教えたい、伝えたい”という感情が一気に湧き上がってきたのです。観戦後、すぐに母親に電話して自分がこの目で見たもの、感じたことを夢中になってしゃべった記憶があります。

02/12
これって、自分のエゴなのか?
  • ニュースを初めて読んだときのことは覚えていますか?

    覚えているし、映像も残っています。当時も自覚していましたが、まあ下手くそでした(笑)。
    入局1年目、神戸局に配属されて最初の2、3ヶ月は無力感でいっぱいでした。念願叶ってアナウンサーという職に就けたのに、何をしていいか分からず、自信も失っていました。

  • そんな自分を変えることはできましたか?

    当時は、自分がどう動けばいいのか、どのようなことが仕事につながるのか分からなかったんです。そんなとき、神戸局の先輩が、JR福知山線脱線事故の取材をしてみないかと声をかけてくれました。「この惨事は神戸局の人間として、今年(平成17年)一年を振り返る上で、絶対に伝えなければいけないものだ。お前なりに何か伝えたいことはないのか?」と。そう言われて自分なりに考え、「ご遺族の声を届けたい」と答えました。
    そこから、先輩にアドバイスをもらいながら福知山線事故で亡くなられた方のご遺族探しをはじめました。

  • ご遺族の方を見つけることはできたのですか?

    はい、ですが取材の申し込みをしてもなかなか会っていただけず、お会いできたのは最初に連絡を差し上げてから2、3ヶ月後でした。でも、そのときはまだ取材ではなく、亡くなられた娘さんにお線香をあげさせていただくためにご自宅に伺いました。それから何度もご自宅に通わせていただいたのですが、自分がやっていることは正しいことなのかとずっと考えていました。僕は自分の仕事としてご遺族の現状や悲しみを伝えたいと思っていましたが、ご遺族の方はそんな僕の要望に応える必要なんてまったくありません。ご両親に話を聞くということは、事故当時の大きな悲しみを再び思い出させてしまうことにもなります。自分のエゴを押し付けているのではないか?その葛藤はずっとありました。
    ただ、二度とあんな悲惨な事故が起きないようにするためにも、事故の記憶を風化させないためにも、ご遺族の悲しみや怒りをどうしても伝えたかった。何度目かにお会いしたときに、ポツリ、ポツリと娘さんのこと、事故当時のことを涙ながらに語ってくださいました。
    この取材は、僕にとってとても貴重な経験になりました。そして今でも、僕に声をかけてくれた先輩に感謝しています。7年上の先輩なのですが、新人の僕を新人扱いするのではなく、自分と同じレベルのものを求めてきました。いきなり高いハードルを目の前に置かれたようで当時は悪戦苦闘しましたが、今思うとそれもありがたかったと思っています。

02/19
いても立ってもいられなかった。
  • 『おはよう日本』のキャスターを担当していますが
    早起きが大変ですね。

    朝4時半からのキャスターを担当させてもらって2年目になります。起きるのは、深夜の0時少し前、局に入るのは深夜の1時過ぎです。3人のキャスターで1週間ずつ担当しているので、自分が担当する週は、初日の前日、夕方5時に寝ます。それでその1週間のリズムを作るという感じです。

  • 夕方の5時に寝られるものですか?

    自分なりの調整方法があります。まず、日曜日は朝の4時に起きて、2時間くらい走ります。昼食のあとは、眠気と疲れでものすごく眠たくなるのですが、それを必死に耐える(笑)。すると、夕方の5時でも眠れます。

  • 2月はスポーツキャスターも担当すると聞きました。

    はい、2月13日から3月2日までの3週間、スポーツキャスターを担当することになりました。いつものキャスター陣が平昌オリンピックの取材に行ってしまうので、僕が代行を務めます。日本のスタジオから、オリンピックの結果を中心に、そのほかのスポーツもお伝えすることになると思います。

  • 平成28年4月に発生した熊本地震では、
    現地から中継していましたが・・・。

    あの日は、深夜の時間帯に勤務があったので局にいました。すると、緊急地震速報が流れて、熊本で震度7の地震が発生したと。テレビを見ると、熊本城が土煙を上げて揺れているのが目に飛び込んできました。熊本は2局目の勤務地です。すぐにニュースセンターに駆けつけて上司に「現地に行かせてください」と直訴しました。
    地震発生から10分後には局を出ていたと思います。自分が6年近くお世話になった熊本が大変なことになっている。もういても立ってもいられなかったのです。羽田空港に向かうクルマの中で熊本行きの飛行機を探しましたが、北九州行きの最終便しかなかったので、とりあえず北九州に降り立ち、そこから陸路で熊本に入りました。翌日、熊本放送局に着いて、5時には震源地である益城町にいました。
    現地を歩くと、道はデコボコで、電柱は傾き電線は垂れ下がっている。家の壁は軒並み倒れ、倒壊している家屋もたくさんありました。余震はまだ続いていて、救急車と消防車のサイレンがずっと鳴り響いていました。見慣れた風景が、無残な光景へとガラリと変ぼうしている。まちを一瞬で一変させる地震の怖さを実感しました。

  • よく知っている場所だけに、
    被災したまちを目の前にしたときの衝撃は大きかったと思います。

    本当に胸が張り裂けそうでした。でも、そこで自分ができるのは現場の状況を正確に伝えることです。もしかすると、それが必要な支援物資の情報になるかもしれないし、熊本に家族や友人がいる方への安否情報になるかもしれません。
    東京からは次々と中継のオーダーが入ってきました。正直、気持ちはひどく傷つき、動揺していましたが、淡々と自分が目にしたもの、取材したことを伝えることに専念しました。

02/26
声だけで勝負できる仕事を。
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