NHKアナウンス室

アナウンサー仕事の流儀

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インタビュー 冨坂 和男

放送が枯れないために一アナウンサーとしてするべきこと

きっかけは昭和が終わる日を新聞社で体験したこと

――アナウンサーを志したきっかけは何だったのでしょうか?

冨坂「どうしてもアナウンサーになりたい、というわけではなかったのですが、報道の世界に対するあこがれはありました。そのきっかけとなったのが、大学3年生から4年生までの2年間、ある新聞社でアルバイトをしていた経験です。忘れもしない大学3年生の冬、昭和63年が過ぎ去った新年早々の昭和64年1月6日。私は週に1度ほどアルバイトながら泊まり勤務をしていたのですが、私が泊まり込みで働いていた翌日に昭和天皇が崩御されました。容体が悪くなったとの報を受けるや新聞社はひっくり返したように慌ただしくなり、仮眠を取っていた私も深夜2時くらいに叩き起こされ、激動の一日を体験することになったんです。アルバイトとはいえ"昭和が終わる"、まさしく歴史の教科書に載るような現場に身を置いていたこと、マスメディアという伝える側としてそういった瞬間を目の当たりにしたこと......大げさかもしれませんがメディアの仕事というのは、歴史的な瞬間に最前線で立ち会える仕事なんだなと痛感したんですね。以来、メディアの世界で仕事をしてみたいなぁという気持ちが常にありました。実際この仕事に就いて、スポーツの歴史的瞬間には何度も遭遇しました。あのときの思いは正しかったと実感しています。」

――記者やディレクターではなく、なぜアナウンサーとして受けてみようと思ったのですか?

冨坂「新聞社の他にラジオ局でもアルバイトをしたことがありました。ですが、映像の世界であるテレビ局だけは無縁だった。ミーハーな気持ちに加え、せっかくトライするなら知らない世界の扉を叩いてみたいという思いも重なり放送局をアナウンサーとして受けることにしました。実は、マスコミは放送局しか受けていないんです(笑)。私自身、放送の世界に興味があったとは言え、自分が採用されるとは思っていなかったので、就職活動は多岐にわたる業種を受けていたくらい。実際、NHK以外の放送局は早い段階で不採用の通知が届きましたから、「自分には向いていないのかな」と弱気になりました。ところが! ありがたいことにNHKだけは声をかけてくれた。「本当に自分で大丈夫なのだろうか!?」という思いもありましたが、先述した新聞社での経験が忘れられなくて、エイヤー! とばかりに飛び込むことを決心しました。」

――当時、冨坂さんの目から見たアナウンサー像というのはどのようなものだったのでしょうか?

冨坂「今のアナウンサーのような役割や立ち位置とは異なる部分が多々あるとは言え、当時抱いていたアナウンサー像というのは、放送の中で極めて無色透明な存在というものでした。自分の主義主張やポリシーを出さず、渡された原稿を淡々と読むイメージ。ところが実際に入局するとまったく違った! ギャップにめんくらいましたね(苦笑)。アナウンスメントの研修以上に、「取材とは何か?」「番組を作るとは何か?」などのテーマを新人アナウンサーだけで考え討論する時間が圧倒的に多かった。我々の世代以前というのは、「アナウンサーであっても取材力を備えた足腰の強いジャーナリストでなければいけない」と考えられていた時代。ちょうど私たちの世代が、その大きな流れの最後の世代にあたると言われています。アナウンサーになったつもりだったのに、研修内容がアナウンサーらしくない......驚きましたよね(笑)。議論を重ねても、もちろん答えなんか出ません。今思えば、取材に対する意識作りだったのだと思います。」

――ということは、初任地では即戦力ではないにしろ、赴任当初から戦力として数えられるような感じでしょうか?

冨坂「最低でも2週に1本は小さくてもいいから番組を作らなければいけなかったので、もう必死です。初任地は故郷でもある長野局ですが、生まれた場所とは言え自分の知っている長野はごく限られた地域。当然、人脈もない。2年目にもかかわらずバリバリ働いている1年上の先輩を見ては、「自分も1年後はこんな風に働けているのだろうか......」と弱気になるばかりでした。原稿を読むことよりも、とにかく企画を出すことを求められた新人時代です。立場は違いますが、取り組んでいる内容は記者やディレクターにも引けを取らなかったと思います。思い出すだけで冷や汗をかきますね(笑)。」


冨坂アナウンサー あの日あの時

長野県内向けの駅伝中継の現場にて。その後、本格的にスポーツアナウンサーの道を志すことに。



大先輩・高山典久アナウンサーの教訓

――現在、冨坂さんはスポーツアナウンサーとして活躍されています。スポーツの世界に身を置こうと決めたきっかけは何だったのでしょう?

冨坂「高校野球の地方予選など、ライブ感のあるスポーツを伝えることに対して関心が大きくなっていくなかで、決定打となったのは初任地・長野局で体験した冬季長野オリンピック開催地決定の瞬間に立ち会ったことでした。私は1990年に初任地長野へ赴任するのですが、当時長野県は1998年に行われる冬季オリンピック開催地の招致活動の真っ只中。翌年91年6月にイギリス・バーミンガムで開かれるIOC総会で正式に決定するのですが、そこに到るまで長野県内ではさまざまなイベントや取り組みが行われていたわけです。当然、私もそういった活動を取材していましたし、決定前夜も県民の皆さんと同様に固唾を飲んで見守っていました。その日私は、志賀高原の山ノ内町のイベント会場から決定の瞬間をお届けするという中継を控えていて、町は夜を徹して翌早朝の瞬間を待ちわびているような状況でした。」

冨坂「運命の瞬間......サマランチ会長(当時)が「ナガノ」といった瞬間の盛り上がりと言ったら! 歓喜の輪の中で私も一緒になって喜び、心の底から湧きあがるものを感じました。この歴史的な瞬間に身を置いて、とてつもない感動を体験させてもらった以上は、「なにがなんでも長野オリンピックの現場に行きたい!」と思うようになった。どうすればそれが現実になるか? そう考えたときに、スポーツアナウンサーという道を目指すことが、その目標に向かうための最短距離であり活路ではないかと。当然不安もありました。ですが、あの歓喜の瞬間を思い出すと、強く背中を押されたような気がして。やるしかない、やるだけやって目指すしかない! と。」

――2局目は滋賀県・大津局です。オリンピックの舞台である長野から離れることに不安はなかったのでしょうか?

冨坂「それは一切なかったです。長野局では、長野オリンピックに対していかにしてアプローチをするか? ということが求められる機会が多かったのですが、裏を返せば、広い意味で「スポーツアナウンサーとはどうあるべきか?」というところまでは深堀りできませんでした。取材をするにしてもオリンピック関連が多いため、どうしてもスポーツとはいえ限られてくる部分があった。ですから、大津局では広い意味で「スポーツアナウンサーとして成長するためには何が必要か?」ということと向き合うことができました。その経験は必ずオリンピックでも役に立つはずだろうと。私にとって大津局は、今の自分の礎を築いたターニングポイントとも言うべき場所。スポーツアナウンサーとしての足腰を鍛えてもらった3年間です。」

――そういう中で忘れられない仕事や言葉などがあれば教えてください。

冨坂「2年前に亡くなられたスポーツの名アナウンサー、大先輩・高山典久アナウンサーの存在に尽きます。当時高山さんは大阪局のチーフアナウンサー、私は大津局に赴任したばかりの実績もない若造。雲の上のような存在です。最初の頃の印象が強烈でした。転勤間もない頃、人手が足りないということでスコアラーとして向かった神戸で行われるプロ野球のオリックス戦。デスクから「夕方くらいには球場に行ってくれ」という伝言通り、試合開始前に余裕を持って球場に行ったのですが、球場に入るや高山さんから、「お前は何のつもりで来たんだ! 練習が何時から始まっているのか分かってんのか!? 例えスコアラーだとしても取材をするつもりはないのか! 帰れ!!」とものすごい剣幕でどやされた。たしかに私の認識は甘かった。ですが、その怒りのすさまじさたるや周りの先輩アナウンサーがなだめるほど(苦笑)。高山さんは「どうしてもスコアラーをするなら、今から取材をしてこい!」と言う。私はその日初めてプロ野球の現場に来た身。どうしていいか分からない......半泣き状態、追い詰められながら、グラウンドに降りて取材らしきことをして......もう本当にトラウマのような体験です(苦笑)。それ以来、現場で高山さんと会うと、いつも「ここがなっていない」「甘すぎる」と怒られました。アナウンサーとしてではなく、スポーツジャーナリストとして現場に向き合え、と何度も教えられました。最後まで一度もほめられることはなかったです。」

――高山さんのいうスポーツジャーナリストとしての姿勢というのは?

冨坂「真剣に向き合うということ。今でも忘れられないことがあります。プロ野球の場合、試合前に球場で選手たちの取材をしますよね? 高山さんは「選手に取材をするときはNHKの3文字を出すな」というわけです。実際に高山さんは「忙しいところ申し訳ない。高山と言うんだけど、先日の西武戦。8回のランナー1塁の場面でカウント2-2から投げた一球。あれにはどう意図があったのか?」といきなりズバンと選手に切り込んでいく。すると選手は、「この人は何者か分からないけど、核心を突いた質問をしてくる」というような戸惑いの表情を浮かべつつも、その質問に答えていくんです。相手をNHKという3文字で振り向かせるのではなく質問で振り向かせろ......高山さんはそれこそが取材であり、スポーツジャーナリストとしての向き合い方だと仰っていました。肩書で取材をするのではなく、生身でぶつかるからこそ本質が見えてくる。私は今でもできません(苦笑)。ですが、高山さんの考え方には敬意や畏怖の念を感じます。あこがれますよね。」

冨坂「生身でぶつかるからには鋭い観察眼を持たなければいけない。高山さんの言っていることが理解できない頃は、本当に会うのが怖かったし、会いたくなかった!(笑) ハウツーを言うわけではなく考え方をバシバシ言ってくるから、やりたくてもできない。本当に怖い存在だった。でも、高山さんの薫陶を受けることができたのは財産です。すごい方でした。」


冨坂アナウンサー あの日あの時

バンクーバー五輪の聖火前で。これまで実況を担当したオリンピックは10大会に及ぶ。



本質を理解するためにOSをアップデートし続けること

――そういう体験を経て、念願の長野オリンピックの担当をされたわけですね。

冨坂「ありがたいことに(当時の)ハイビジョン放送の実況アナウンサーとして関わらせていただきました。念願が叶ったものの、すでに「スポーツアナウンサーとしてどうステップアップしていくか」という目標が新たに出来上がっていたので、舞い上がるようなことはなかった。おそらくですが、スポーツアナウンサーが最も緊張する舞台は、春夏の高校野球(甲子園)のラジオ実況を初めて担当するときではないでしょうか。甲子園のラジオ実況という舞台は、NHKにおけるスポーツアナウンサーの登竜門的存在。「スポーツアナウンサーとしてやっていくんだ!」と決めた人にとってこの舞台に勝るものはないと思います。」

――数々のスポーツ実況を担当してきた冨坂さんが考える、スポーツアナウンサーに欠かせないものとは何でしょうか?

冨坂「準備期間があるものとないものがあります。人によっては不得意な競技もあるでしょう。オリンピックでは予想していなかった競技の選手が快進撃を続け、急きょ放送でお伝えすることも珍しくありません。そういった場合、どうしても競技に対する準備や理解を深める時間が足りない。そういうときにどうするか? 高山さんに言われたことでもあるのですが、勝負を見る眼を育てていくしかない。勝負勘を養うこと。いろいろな競技、いろいろなルールがありますが、スポーツというのは、必ず勝ち負けがあって人間が行うものですよね? それは普遍なんです。「勝負所はどこか?」「勝敗の潮目はどこか?」、根本にある勝負のポイントを嗅ぎ分けることが求められます。取材をするにしても、今日この後のリポートで使う取材ではなく、この先何年も生きてくるような材料を聞き出せ、と。野球の取材なら野球の根本的な話こそ聞かなければいけません。それを磨くための日々の取材だと、高山さんは仰っていました。」

――自分自身を磨いていくための取材でもあると。

冨坂「普遍化できる部分を自分の中に積み重ねていけるかどうか。「試合前の○○選手の談話を伝えました」で終わるのではなく、その話を聞くことで「野球ってこういうものなんだな」「選手起用というのはこういうものなのか」といった普遍化できるものを少しずつ蓄えていくことが、自分の"眼"を作る、勝負勘を作っていくことにつながる。これは一生かかることなので終わりがありません。」

――仕事観にもつながるというか、「自分の仕事とは何か?」というところまで突き詰めて考えないといけませんね。

冨坂「勝負勘を磨いていけば、例えば「ここはベンチとしては動きたいところでしょうか?」ということを解説者に振りやすくなる。専門家と見方が合致する瞬間があると、話が深まっていきます。「この人はさっきからよく話すけど勝負のポイントが分かっていないよなぁ」と思われてしまっては解説者もトーンダウンしてしまう。我々が足を引っ張るわけにはいきません。何気ない一言でも、解説者が「この人はよく見えているな」となれば視聴者にとって有意義な情報や解説につながるわけですよね。スポーツという世界で繰り広げられる勝負の本質を理解していけば、たとえ馴染みのないジャンルのスポーツを担当することになっても、肝心な部分は把握できるはずです。ルールと言うのはソフトです。きちんと土台のある優れたOSやハードを作ることが大事。その上で競技のルールといったアプリケーションをインストールしていけばいい。いかにして勝負の本質というOSをアップデートしていくかが問われている。どれだけアプリをインストールしてもOSが古いとうまく機能しなかったり動作が遅くなってしまったりしますよね!? アップデートを怠ると枯れていきます。実況を担当するアナウンサーが枯れていくということは、放送が枯れていくことを意味しますよね。一アナウンサーとして、私がやるべきことはそれだろうと。」

――今の若い人たちはスマートフォンで中継や結果を見ることができます。時代のニーズに合わせて放送や実況をしていくべきなのか......テクニカルな面についてはどうお考えでしょうか?

冨坂「テレビにおける生中継というのはどの媒体よりもライブ感に勝ります。新聞やスポーツ雑誌は、試合後の取材を重ねることができるため本放送時よりもドラマを表現することに勝ります。それだけに実況を含めたライブ放送では、ストーリーを語っても新聞や雑誌に勝つことはできないと考えています。やはり放送はライブ感で勝負するしかない。ところが、インターネットとスマートフォンの登場によって一球ごとに結果の分かるサイトは定着化し、後追いで試合を見ることができるアーカイブ放送も当たり前になりつつある。速報性とライブ感を備えるメディアが台頭してきた......では、我々はいかにしてテレビならではの魅力を伝えていくか? 非常に難しい問題だと思っています。漠然としているかもしれませんが、勝負の展開や流れを的確に押さえつつ、この先を予測することが大事だと思っています。こういう展開になっているから、この先どう動き、そしてどこが見どころになるか......いずれはAIがそれを可能にしてしまうのかもしれませんが(苦笑)、現時点ではそれこそがスポーツアナウンサーにしかできない放送だと思います。やはり"勝負を見る眼"がより重要になってくると思うんです。それを磨き続けることが、我々の責任であるとも思うんですよね。」


冨坂アナウンサー こだわりの道具

「帳付け」

冨坂「プロ野球を担当するアナウンサーは、全12球団の結果と出場した各選手の記録を毎日帳付けすることが日課となっています。試合の翌朝、約2時間かけて全記録を一つ一つ手書きで記していきます。どれだけ多忙でも眠い目をこすりながら付けていく(笑)。今年はリオ五輪があったので、当然ブラジルでも毎朝欠かさず手書きの日々。家族との旅行先でも早朝に起きて帳付けをします。溜めるともっと大変ですからね(苦笑)。こういった小さな積み重ねが勝負勘や勝負の潮目を見定める"眼"になりますから欠かせません。」



「4色ボールペン」

冨坂「帳付けやスコアを付ける際に欠かせないのが4色ボールペン。攻撃側にとって有利な材料(ヒットやホームランなど)を赤で、攻撃側にとって不利な材料(三振やダブルプレーなど)を青で記します。色分けすることで、その選手の調子の良し悪しが視認しやすくなるわけです。」



冬の到来は安息の到来でもある

――冨坂さんのリフレッシュ方法は何でしょうか?

冨坂「車の運転が好きなのでドライブですね。高速道路を運転するのは味気ないので、一般道をあてもなく走っていくことがリフレッシュかなぁ。」

――目的地を決めずにドライブするのですか?

冨坂「一応決めるものの、そこに向かうことに重きを置くのではなく、帰宅してから改めて自分が走った道を見返すのが好きなんですよね。目的地へ向かうまでに気になる小道があると入ってみたくなる。すると、思わぬところに出てきたりして新たな発見につながる。その答え合わせというわけではないのですが、地図で見返してみると「なるほど!」というような小さな感動を体験できる(笑)。」

――アナウンス室のプロフィール欄には北海道の道が好きと書かれています。

冨坂「札幌局に赴任した当初、「北海道でドライブに行くならどこだろう?」と聞いたことがあったのですが、「端っこに行くべきです」と言われました。北海道にはたくさん岬や半島がありますから、可能な限り端っこに行ってみましたね。とりわけ、北海道の中でも道東と呼ばれるエリアをドライブするのが気持ちよかったですね~。帯広から内陸部を通って釧路に抜ける道や、浜中町や根室方面に向かう道の素晴らしいこと。冬に然別湖(下写真参照)に行くと、湖の上にお湯を引いてきて仮設の温泉を限定的に作るんです。凍った湖の上で温泉につかる......というウソみたいな話です(笑)。楽しかったなぁ。北海道って本当に道がビックリするくらい一直線。北海道ならではの大きさと、そこに道路を作り上げていった開拓の精神、大自然を突っ切るあの爽快感......ドライブの醍醐味ですよ。野付半島や知床の景色は本当に規格外。家族とも時間ができたら、「冬に北海道に行きたいよね」なんて話しているんです。」

――ふ、冬にですか!?

冨坂「生まれが長野県、そして昔からスキーが好きだったので雪に対する耐性は強かったのですが、札幌局に転勤して以降、冬の景色に魅せられてしまって。安全運転第一を心がけていますが、雪道を進んでいくのが大好きなんです。真っ白な中、静かに雪だけが降り積もっていくあの透徹した雰囲気というのでしょうか。静かだけど冒険感がある。落ち着くんだけど不安感もある。家族とは野生のゴマフアザラシを見るために、札幌から稚内まで運転したこともあるくらいです。」

――冬の北海道を稚内まで!!? 家族もよく一緒に行ってくれたというか(笑)。

冨坂「最初は家族も及び腰だったんですけど、せっかく北海道に来たのに冬の間どこにも行かないのは、魅力を知らないままで終わるかもしれない。それはもったいないよね、ということで最終的に家族もワクワクしながら出発してくれました。せっかく北海道に来たんだから、冬の北海道の魅力も知らないと。そういう楽しい体験がたくさんあったので、今では「北海道に行くなら冬だよね」となっている(笑)。」

――冨坂さんは冬好きなんですね。

冨坂「そうだと思います。私は夏よりも冬のオリンピックのほうが好きなくらい。もちろん夏も大好きですよ! でも、それ以上に冬が好きなんです。「なんでそこまで冬が好きなのかな?」と考えたときに、私たちプロ野球担当アナウンサーというのは、春から秋にかけてスポーツの中継を含め仕事のピークを迎えるんですね。夏はプロ野球、甲子園、オリンピックというように大イベントが多く、秋は"スポーツの秋"というようにさまざまなジャンルの大会が開かれ、プロ野球の日本シリーズも開催される。秋が終わると、先に紹介したプロ野球12球団の帳付けから解放されることもあって、ホッと一息つける時間が増えるんです。私にとってその瞬間はいつも冬の到来と重なる。もちろん、冬は冬でたくさんの競技の放送がありますから、忙しさは変わりません。ただ、体が安らぎを求めていることもあって、冬の何とも言えない静けさやしんしんとした空気感が、それまでの体にたまった疲れをキレイにしてくれるのかもしれません。冬は、次のシーズンに向かうためにエネルギーをたくわえさせてくれる必要不可欠な時間。今年も冬が待ち遠しいですね。」


冨坂 和男(とみさか かずお)
昭和42年 長野市生まれ。平成2(1990)年入局、長野・大津・東京・大阪・札幌で勤務し、現在Gメディア所属。スポーツ中継(野球、陸上、ラグビー、スキーなど)を専門とし、五輪は1998年長野から2016年のリオまで10大会、現場で実況を担当。






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