NHKアナウンス室

アナウンサー仕事の流儀

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インタビュー 保里小百合

放送で、誰かの役に立ちたい。
06/04
『言葉のチカラ』を実感した日々。
  • 生まれたのは、アメリカのニューヨークだそうですね。

    父の仕事の関係で、生まれてから5歳までと、10歳から12歳までの8年間アメリカで暮らしていました。ただ、5歳までの記憶はあまりなくて、アメリカでの記憶は10歳からの3年間がほとんどです。

  • 10歳からは、ほとんど英語がわからなかったにも関わらず、日本人学校ではなく現地の学校に通いました。そのとき、言葉の面でとても苦労しました。それまでは当然のようにできていた先生やクラスメイトとの会話が、英語では全くできず、途方にくれました。自分が生まれた国とはいえ、そのときの私にとってはやはり異国で、周りとうまく意思疎通ができないことで、10歳にして人生初の挫折を味わうような感覚でした。でも次第に英語ができるようになっていくと友だちと遊ぶことも増えて、幸せな思い出もできていきました。

  • アメリカで過ごした時間は、
    今の自分にどんな影響を与えていますか?

    振り返ってみても、『言葉のチカラ』を痛感した3年間でした。「言葉が通じないってこんなにつらいことなんだ」と落ち込んだし、逆に「言葉が通じるってこんなに嬉しいことなんだ」と、何ものにも代えがたい喜びを感じたのもこのころです。
    アメリカに再び行く経験がなかったら、『言葉のチカラ』をこれほど実感することはなかったかと思います。自分の気持ちが伝わらなくて途方にくれたことも、誰かの言葉に救われたことも、子どもながらに『言葉のチカラ』を実感することにつながり、今の私に大きな影響を与えていると思います。

  • どうしてアナウンサーを目指そうと思ったんですか?

    10歳でアメリカに行ったときも、その後、日本に帰って来たときも、何だか自分がよそ者のような感覚があって、小さなことで、傷ついたり、疎外感を感じたりすることがよくありました。新しい環境にすぐに馴染めないというか・・・新しい環境に入る度、不器用な自分に落ち込んでいました。そうした経験から、自分のように何かしらの「生きづらさ」を感じる人たちのことを考えるようになりました。自分よりもっとつらい思いをしている人は、たくさんいるはずだと。私自身は言葉に励まされることが多かったので、『言葉のチカラ』で、少しでも人の役に立てるような仕事に就きたいと思うようになりました。
    大学に入ったころには、すでにメディア関係に就職したいという気持ちはあって、アナウンサーや記者に憧れていました。ただ、周りには私よりはるかにすぐれた文章を書く人がたくさんいたので(笑)、私は声やさまざまな表現力を駆使して伝えるアナウンサーになりたいと考えるようになり、狭き門だとは分かっていましたが目指すようになりました。

06/11
失敗も成功も、すべてが私を育ててくれました。
  • 新人のころは、どんなアナウンサーでしたか?

    初任地は高松放送局だったのですが、そのときの上司に「久々に新人らしい新人が入ってきた」と言われました。最初からそつなく仕事をこなせる新人が多い中、私は本当にドジだったんです。たとえば、テレビのニュースで、原稿を読みながらその内容に合わせて画面を切り替える合図を出すことになっていたのですが、なかなか上手くできない。慣れて自然にできるようになるまで、失敗ばかりしていました。当時、できない自分に落ち込んでいたら、上司に「失敗したことは心から反省しなければいけないけれど、仕事の失敗は仕事でしか取り返せないんだよ」と言われました。その言葉は心に響いて、今も時折思い出します。

  • 高松放送局で印象に残っている仕事はありますか?

    香川県のたくさんの場所で取材をさせていただきましたが、中でも「大島青松園」というハンセン病療養所で教えていただいたことは、今の私に大きな影響を与えています。
    瀬戸内海にハンセン病の療養所がある大島という島があり、自治会長をしている元ハンセン病患者の方に何度も話を聞かせていただきました。かつて、ハンセン病患者は、ひどい差別や偏見にさらされていました。家族との縁を切らされ、小さな島に隔離され、故郷に帰ることもできない。自治会長をはじめ多くの元患者の方々が、思い出すだけでもつらいはずの過去を語ってくださいました。どの話も私の想像を絶するものばかりで、その言葉を聞きもらさないように、取材も必死でした。

  • 取材を通して、私は、ハンセン病元患者のみなさんが背負わされた苦しみの歴史が決してくり返されないように、その記憶を教訓として伝えなければならないと感じました。
    振り返ってみれば、もっとこうすればよかった、ああすればよかったと反省はたくさんあります。でも、番組を通して、みなさんの「言葉」を多くの人に届けることができたことは、伝え手としての第一歩だったように思います。

  • 高松放送局の後、福岡放送局を経て、
    東京では『ニュースウオッチ9』のリポーターを担当しました。

    『ニュースウオッチ9』では、とても濃い1年間を過ごしました。 現場に行って取材して、そこで知り得たことや感じたことを自分の言葉で伝える。現地にいる者だけが分かること、感じることを、できる限り分かりやすく伝えるためにどうすればいいのか?日々考えていました。 リポーターとして実感したのは、自ら取材して、放送では最終表現者として視聴者の方々に責任を持って届けることができるという、この仕事のやりがいです。取材から放送まですべての過程に携わり、最終的に表現するところまで担えることに、アナウンサーとして喜びを感じました。

  • 有馬嘉男キャスターや桑子真帆キャスターをはじめ、番組のみなさんから多くのことを学ばせていただきました。みなさん、本当にやさしく、あたたかくて・・・私の送別会では、目覚まし時計をプレゼントしてくれたんです。 『おはよう日本』を担当することになった私が早起きするために、その目覚まし時計にはオリジナルの音声が録音されていて、感激しました。「保里、おはよー、起きて!外はまだ暗いけど、『おはよう日本』だからねー」など、いつ聞いても思わず笑顔になりますし、あたたかさに励まされます。枕元にある、私のお守りです。

06/18
朝の元気と、その日の情報は『おはよう日本』で。
  • 今年の4月から担当している『おはよう日本』では、
    どのようなことを心がけていますか?

    『おはよう日本』は、初任地の高松放送局、その次の福岡放送局、そして東京の『ニュースウオッチ9』で学んだことや経験したことをフル稼働させて放送にあたっています。
    キャスターとしてスタジオにいることが多いですが、ニュースを伝えるときも、ニュースとニュースのつながりを考えるときも、『ニュースウオッチ9』の現場やスタジオでの経験が役立っています。そして、プレゼンを担当するコーナーでは、高瀬耕造キャスターや和久田麻由子キャスターとの掛け合いのなかで、そのときのテーマをより分かりやすく伝えていきたいと思っています。 自分なりの視点を持つことが放送に生きてくると思うので、仕事だけでなく日々の暮らしの中でも自分なりの視点をもって物事を見るように心がけています。

  • 日曜日の放送を担当することもありますよね?

    『旬体感』という日曜日のコーナーでは、全国各地の旬なものを取材して、ときに体当たりリポートもしながら(笑)、地域のみなさんの暮らしにスポットをあてて放送しています。すでに愛媛県の鯛や石垣島のパイナップルを取材して放送したのですが、毎回すばらしい出会いがあり、取材が本当に楽しいです。『旬体感』でも、そのほかのニュースでも、これからも機会があればどんどん取材で外に出て行きたいなと思っています。

  • 早朝の番組を担当する上で、
    大切にしていることはありますか?

  • 『おはよう日本』は、仕事や学校に出かける支度をしながら、朝食をとりながら見てくださる方が多いと思うので、音声を聞いているだけでもしっかり情報が入っていくように、より明瞭な発音で、分かりやすく伝えようと心がけています。

  • また、気象情報の伝え方も工夫しています。お出かけの準備をしていて、今日はどんな服装で出かけようか考えているとき、その日の天気や気温はとても大切な情報です。そこで、たとえば夕方には気温が下がるので「上着を持っていったほうがいいでしょう」とか、「昨日は厚手のコートが必要でしたが、今日は薄手のコートで十分でしょう」など、より具体的に、気象情報を日々の暮らしに役立てられるように、気象予報士と掛け合いながら伝えるようにしています。
    そして、『おはよう日本』は、出演者・スタッフ一丸となって、番組を見てくださっている方が明るく元気よく「今日も一日頑張ろう!」と思っていただけるような番組作りを心がけています。

06/25
放送で、誰かの役に立ちたい。
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