出演者発表 第6弾!第2部・田畑政治篇
~昭和の幕があがり、舞台は水泳へ!~

いだてん ~東京オリムピック噺(ばなし)~

今や、日本のお家芸ともいわれる「水泳」。
第2部は、プールもまだ珍しかった時代の“河童かっぱ”たちの活躍から始まります。
田畑政治は“浜名湾の河童”と呼ばれながら、幼いころに病気で泳ぐことをあきらめます。
しかし、水泳への情熱はやむことなく、新聞記者のかたわら指導者として日本水泳の未来を切り開いていきます。
日本中から有望な若手を発掘、次々とオリンピック選手を育てあげます。
水泳総監督として、男子6種目中5種目を制した1932年ロサンゼルス大会。
第二次世界大戦の影が忍び寄る中、“前畑ガンバレ”のラジオ実況に日本中が熱狂した1936年ベルリン大会。
日本泳法に始まった黎明れいめい期から、世界一の水泳大国となっていく栄光の物語とともに戦争により変容していくオリンピックの歴史を劇的に描き出します。

※青ラインは各選手の出場オリンピック大会名

斎藤さいとう たくみ

斎藤 工

日本水泳界の大スター

高石勝男
(たかいし・かつお)

1924年 パリ/1928年 アムステルダム/1932年 ロサンゼルス

日本のクロールの第一人者。1924年パリオリンピックで、100メートル自由形と1500メートル自由形で5位に入り、日本人水泳選手として初めての入賞を成し遂げる。1928年アムステルダムオリンピックでは100メートル自由形で銅メダルを獲得。容姿も性格も抜群で、特に女性からは絶大な支持を集めた。高石見たさに観客が集まるスター選手。

はやし 遣都けんと

林 遣都

1932年ロサンゼルス銅メダリスト

大横田 勉
(おおよこた・つとむ)

1932年 ロサンゼルス

中学時代から水泳選手として頭角を現し、得意の200メートル・400メートル自由形で日本新記録を連発する。繊細で人一倍責任が強く、夜には腹巻きを欠かさないほど体調管理に気を遣っていた。1932年ロサンゼルスオリンピックには400メートル自由形で出場、優勝間違いなしと大本命視されるが、まさかの事態に。

三浦みうら貴大たかひろ

三浦貴大

1932年ロサンゼルス
アシスタント・コーチ

野田一雄
(のだ・かずお)

1924年 パリ

田畑政治と同郷の先輩・後輩の間柄。1924年パリオリンピックでは、高石勝男らとともに800メートル自由形リレーに出場し、5位入賞。面倒見が良く、1932年ロサンゼルスオリンピックでは日本代表チームのアシスタント・コーチとして、練習メニューづくりやコンディションの調整を担い、日本代表チームの快挙を裏方として支えた。

大東だいとう駿介しゅんすけ

大東駿介

日本人初のオリンピック連覇者

鶴田義行
(つるた・よしゆき)

1928年 アムステルダム/1932年 ロサンゼルス

佐世保海兵団に在籍時、専門的な指導も受けずに全国大会で優勝し、彗星すいせいのごとく水泳界に現れる。1928年アムステルダムオリンピックでは200メートル平泳ぎで、日本水泳界初の金メダルを獲得。1932年ロサンゼルスではオリンピック連覇に挑んだ。何事にも動じない度胸の持ち主で、日本選手団の兄貴分としてチームを支える。

上白石かみしらいし萌歌もか

上白石萌歌

日本人女性初の金メダリスト

前畑秀子
(まえはた・ひでこ)

1932年 ロサンゼルス/1936年 ベルリン

「前畑、ガンバレ!」の実況で有名な伝説のスイマー。専門は200メートル平泳ぎ。1932年ロサンゼルスオリンピックで銀メダル、1936年ベルリンオリンピックでは日本人女性初となる金メダルに輝く。負けず嫌いで毎日2万メートル近く泳ぐ努力家であったが、天真爛漫らんまんで無邪気な性格ゆえに、周囲からのすさまじい期待に翻弄される。

皆川みながわ猿時さるとき

皆川猿時

1932年ロス・1936年ベルリン
日本代表水泳監督

松澤一鶴
(まつざわ・いっかく)

日本泳法の達人であり、学生時代は中・長距離自由形の選手として活躍。東京帝大在学中に、田畑政治らとともに「大日本水上競技連盟」(のちの日本水泳連盟)を設立し、以降、指導者として日本水泳の発展に貢献する。愛称は「カクさん」。明るく豪放な一面と、冷静沈着で理論的な一面の両方を持ち合わせ、親分肌の田畑とは良いコンビだった。

トータス松本まつもと

トータス松本

NHKスポーツアナウンサー

河西三省
(かさい・さんせい)

運動部記者として新聞社に勤務後、NHK入局。「河西の放送を聴けば、そのままスコアブックをつけられる」と評されるほど克明な描写で知られた。1936年ベルリンオリンピックでは、前畑秀子の凄絶せいぜつなレース展開にふだんの冷静さを失くして「前畑、ガンバレ!」を20回以上も絶叫。日本中を熱狂させたラジオ実況は現在でも語りぐさになっている。


訓覇 圭(制作統括)

「いだてん」第2部に突入します。主役・阿部サダヲさんの登場とともに、舞台は陸上から「水泳」に変わり、いよいよメダリストが登場します。と書くのは簡単ですが、泳ぐ方は大変。俳優陣の泳ぎこみ、半端ないです。選手全員が立ち泳ぎで日本泳法を披露するシーンなど圧巻、鍛え上げられた肉体をぜひご堪能ください。そんな選手たちが「まーちゃん」と慕うのが、阿部さん演じる田畑政治です。まーちゃんは、監督なのに全然コーチングとか出来ない、ただのおしゃべりで邪魔な人。だけど不思議とチームに固い結束を生んでいきます。宮藤さんの筆で最高&最強に仕上がった「まーちゃん軍団」が、世界に真っ向勝負を挑む壮大な歴史物語、どうかご期待ください。


物語

関東大震災の翌年、1924年10月。東京帝大を卒業し新聞社に勤務していた田畑政治は、帝大水泳部コーチの松澤一鶴、高石勝男、野田一雄とともに「大日本水上競技連盟」(のちの日本水泳連盟)を設立する。水泳少年だった田畑は幼いころに病気にかかり、選手ではなく指導者への道を歩み始めていた。

田畑は、帝大工学部の地下に船舶実験用の巨大な水槽タンクを発見、スチームパイプを引き込むなど、手作りで温水プールを完成させる。聖地となったプールには、九州の鶴田義行など全国から若者が集まり、名選手が次々と誕生する。

1928年アムステルダムオリンピックでは、200メートル平泳ぎで鶴田が金メダル、100メートル自由形で高石が銅メダルを獲得する。初めてのメダルに「我が水連は世界一を目指すぞ!」とかちどきの声を上げる田畑たち。金栗四三と三島弥彦が挑んだストックホルムオリンピックから、実に16年の月日が流れていた。

鶴田の水泳の金メダル、そして陸上の織田幹雄の金メダルは国民の関心を呼び、日本にオリンピック熱が生まれる。この動きに目をつけた田畑は、日米対抗水上競技大会など多くのイベントを企画、興行収入を次のオリンピック資金とする。資金難に苦しんできた嘉納治五郎は、自分にない才能、魅力をもった田畑を後継者として大日本体育協会に引き入れ、東京オリンピック開催を夢見る。

迎えた1932年7月。10万5000人の観衆が見守る中、ロサンゼルスオリンピックが華々しく開幕。参加国は37か国。日本からは過去最高131人が出場。「一種目も失うな」の田畑の大号令のもと、男子チームは大横田 勉の番狂わせ以外は、全6種目中5種目を制するという歴史的偉業を達成する。ポール高く掲げられた日の丸に、人種差別に苦しむ日系人は歓喜の涙を流した。その姿を目にし、田畑はオリンピックがもつ魅力にとりつかれる。

ロサンゼルスで注目を集めた、ひとりの女子選手がいた。200メートル平泳ぎで、わずか10分の1秒差で銀メダルとなった前畑秀子であった。前畑は女子水泳初のメダルに大満足だったが、帰国後の歓迎会で東京市長の永田秀次郎から「なぜあと10分の1秒縮めて、金メダルを獲れなかったんだ」と詰め寄られる。同様の手紙が全国から山ほど届く。水泳をやめるつもりの前畑だったが、翌朝から1日およそ2万メートルを泳ぐ死闘が始まった。

4年後の1936年。ベルリンオリンピックは異様な熱狂とともに幕を開けた。自然石を使った10万人収容のコロシアム、聖火ランナーを取り囲む兵士と追走する戦車。熱狂の中心にはナチス・ドイツ総統ヒトラーの姿があった。女子200メートル平泳ぎ決勝。日本中の期待を集めて、22歳の前畑秀子が飛び込み台に立つ。となりのコースには強敵・ドイツのゲネンゲル。ヒトラーも見つめる中、4年間の総決算となるレースが始まった。日本時間深夜0時、ラジオから河西三省の声が聞こえてくる。「前畑、ガンバレ!前畑、ガンバレ!」

ベルリンではIOC総会が開かれ、嘉納、田畑の奮闘で、念願の1940年東京オリンピックの開催が決まった。それは悲劇の始まりでもあった──。


「いだてん ~東京オリムピックばなし~」

【放送予定】
毎週日曜[総合]後8:00/[BSプレミアム]後6:00/[BS4K]前9:00

【制作統括】訓覇 圭 清水拓哉
【演出】井上 剛 西村武五郎 一木正恵 大根 仁

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