“城マスター”千田嘉博先生にとことん聞きました!

絶対行きたくなる!ニッポン不滅の名城「小田原城」

9月4日(金)[BSプレミアム]後10:00

戦国時代、武田信玄や上杉謙信ら名将を退け、豊臣秀吉の20万の大軍をも容易に寄せ付けなかった、難攻不落の城・小田原城。①なぜ小田原城は、あれほど大きく作られたのか。②なぜ石垣ではなく、土の城だったのか。③そして江戸時代、なぜ幕府は小田原城の天守をわざわざ再建したのか──。

全国各地の名城の秘密を解き明かすシリーズ「絶対行きたくなる!ニッポン不滅の名城」の9月4日放送回では、“城マスター”こと千田嘉博教授(奈良大学)がこれら3つの謎を解明しながら、関東の名城・小田原城の魅力に迫ります!

千田先生に、番組の見どころとともに、夏の城歩きに欠かせないグッズを教えてもらいました!

“白亜の天守”で知られる小田原城の秘密に迫る

小田原城に残された“大名と民との関係”に大注目!

──小田原城の「ぜひここに注目してほしい!」部分はどこですか?

小田原城は戦国時代、関東を支配した北条氏が本拠地にした城でした。北条氏は、織田信長や豊臣秀吉とは違った政治方針を持っていて、ひとことでいえば“領民のための統治”だったんです。今風におおげさに言えば「領民ファースト」ということでしょうか(笑)。私自身も、今回あらためて北条氏の民を思う施政に触れ、感動すら覚えましたね。

一方で、領民も北条氏を慕いました。小田原城が豊臣秀吉に攻められたときには、一緒になって城を造り一緒になって城にこもって戦ったんです。今でも小田原城には、北条氏と領民との絆がわかる痕跡がここそこに残っています。今回は、小田原城に残された大名と民の関係に注目していただきたいですね。

戦国時代の防衛ライン「総構え」に隠された、北条氏と領民との関係とは?

──北条氏の領民への政策が分かるような史実は残っているんですか?

北条氏は代々、領民に指示を出すときに、文書で直接伝えました。悪い代官などが間に入って、領民から搾取しないようにするためです。このため北条氏の領地では、当時としてはとても税金が安く済んだんですね。ほかにも大名の領民への気遣いがうかがえる史実がいくつも残っていますが、こういった北条氏の姿勢をひとことで言い表したスローガンがありました。北条氏はそれを印鑑に使い、文書に押印することで公表していたんです。さて、そのスローガンとは……? 答えは、番組をご覧ください!(笑)

小田原城 銅門あかがねもん。「江戸時代の姿に復元された銅門は、門扉が銅張りで火や鉄砲に強い造りをしています。有事には橋を落として敵の侵入を止めることもできました」(撮影・千田嘉博)

──番組では、小田原城の3つの謎が解明されていきますね。一つ目が「なぜ小田原城が大きな城になったのか」。そもそも小田原城って、ほかの城と比較してどれくらい大きかったんですか?

戦国時代、北条氏が拠点とした小田原城は、豊臣秀吉の大軍と対じするために、およそ9キロメートルにおよぶ防衛線で城を囲み、当時おそらく日本一広い城になりました。後に秀吉が大坂城に造った防衛線がおよそ8キロメートルですから、それを上回る広大さだったことになりますね。

──それは、飛び抜けて大きいですね! 2つ目の謎は「なぜ小田原城は、土の城だったのか」。今は石垣が立派な小田原城ですが、戦国時代は土の城だったと知って驚きました!

戦国時代の広大な小田原城は、江戸時代になって規模が大幅に縮小され、中心部分に石垣を使った城が建てられたんです。しかし、そのほかの部分はそれほど手を加えられることなく、そのまま残りました。この残された部分の発掘調査が進められ、昨今、戦国時代の小田原城が鉄壁の土の城だったことがわかってきたんです。

発掘で姿を現した北条氏の山城(河村新城)。

──“土の城”と聞くと、なんとなく石垣で造られた城よりもぜい弱な気がしてしまうのですが……。

今回ロケで、小田原城から車で1時間ほどの小田原城の支城・河村新城の発掘現場を訪れたんです。河村新城は、小田原と静岡県や山梨県を結ぶ要地の山上に築かれた土の城です。発掘調査中の河村新城からは、深さ10メートルを超える堀や、高い土の壁が見つかり、かつての土の城はこのような姿をしていたのだということがよくわかりましたね。小田原城もきっと同じだったと思うのですが、急角度に固められた土の壁を登ることは難しく、堀に落ちたらはい上がることは不可能。その防御力は石垣の城に勝るとも劣らないということを実感できました。

この河村新城跡は、新東名高速道路の工事のために、このあと取り壊されることになっているそうです。そうなればもう二度と目にすることはできません。そんな貴重な現場を実際に目にする機会をいただけて、私にとって今回、最も印象深い経験になりました。

発掘調査中の河村新城で見つかった畝堀うねぼり。「河村新城は、関東ローム層の土を固めて造られていました。戦国時代の北条氏の小田原城もおそらくこのような姿をしていたものと考えられます。パノラマ写真で撮影しました」(撮影:千田嘉博)

──そして3つ目の謎が、「小田原城の天守には、ほかの城にはない特別な意味があった?」ということですが……。

江戸時代は、天守を建て直したりすることはほとんどなかったんです。江戸城や大坂城でさえ、一度壊れてしまえば二度と再建されませんでした。それが、小田原城だけは、壊れるたびに修理しているんです。その理由はぜひ番組で確かめていただきたいのですが、私が思う小田原城の最大の魅力は、この城が、地震や富士山の噴火など、数々の災害を乗り越えてきたお城だということなんです。

再建・改修が繰り返された天守。そこに込められた意味は…

現在も城内には、大正時代の関東大震災によって崩れかけた石垣が、そのままの姿で保存されています。これはとても珍しいこと。お城が災害の被害を受けたという歴史を、ありのままに見ることができるのです。それらを見ると、大自然の脅威を感じるとともに、災害から立ち直ろうとする地元の人たちにとって、お城とはどういう存在だったのだろうかと想像させられます。災害に向き合う人々にとって、やはりお城は特別な意味を持っていたんですね。小田原城は、お城と災害の関係が分かる、大変貴重で魅力的なお城だと思います。

番組では、小田原城の天守最上階の秘密が解き明かされることに。

小田原城に刻み込まれた、大名と領民たちの思いとは──。
関東の名城・小田原城の魅力をじっくり味わってください!

連載コラム「教えて!千田先生」
“城歩きのコツ” その3

暑い季節には、虫除けグッズをお忘れなく!

右上から時計回りに、防虫スプレー、電池式の防虫器、蚊取り線香タイプの防虫器。

夏の城歩き、特に山にあるお城を探索するには、害虫対策が欠かせません。そこで今回、お城歩きグッズとして紹介したいのは、防虫スプレーと携帯防虫器です。携帯防虫器としては、蚊取り線香タイプと電池式タイプを持っていますが、今回の小田原城では蚊取り線香タイプを使いました。といっても、これは一般の蚊取り線香ではありません。蚊だけではなくアブやブヨなどにも効く屋外用の強力な防虫線香で、専用の携帯器具に入れて火をつけて腰から下げて使うんです。効果はてきめん! 夏の城歩きのおともにオススメです。

こちらが、夏場に山城を散策する際の千田流スタイルです!

絶対行きたくなる!ニッポン不滅の名城「小田原城」

【放送予定】9月4日(金)[BSプレミアム]後10:00

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