“城マスター”千田嘉博先生が徹底解説!

絶対行きたくなる!ニッポン不滅の名城「一乗谷」

12月4日(金)[BSプレミアム]後10:00

越前を支配する朝倉氏の城下町として栄えた福井県・一乗谷は、織田信長によって焼き払われたあと、再興されることなく埋もれたままでした。ですが、現在は見事に復原ふくげんされており、戦国時代の城と町の遺構がそのまま残っている貴重な場所として知られています。

全国各地の名城の秘密を解き明かすシリーズ「絶対行きたくなる!ニッポン不滅の名城」の12月4日放送回では、この一乗谷をピックアップ! 城にまつわる3つの謎を解明しながら一乗谷の魅力に迫ります。

番組でお伝えする3つの謎
謎1「なぜ一乗谷は平野ではなく、山間に築かれたのか」
謎2「なぜ一乗谷が繁栄を極められたのか」
謎3「なぜ一乗谷に、たくさんの庭園が造られたのか」

解き明かすのは、“城マスター”こと千田嘉博教授(奈良大学)。千田先生に、番組の見どころとともに、城歩きの際にぜひ持って行きたいお役立ちグッズを教えてもらいました!

「復原町並」内の商人や職人が住んでいた町家の建物前にて(写真上)。ここでは、発掘調査にもとづいて、戦国時代の町が正確に復原されています。

日本のポンペイ!? 長年水田に埋もれていた一乗谷

──千田先生が考える、一乗谷の魅力は何ですか?

日本には3万を超える城跡がありますが、城下町の中心部がぜんぶ国の特別史跡として保護され調査されてきたところは、一乗谷のほかにありません。発掘調査は、福井県立一乗谷朝倉氏遺跡資料館を中心に、50年以上も続けられています。一乗谷のおかげで私たちは、戦国時代の人々の暮らしや考えを、正確に知ることができるのです。一乗谷は、戦国時代の城下町のイメージを作ってきた、いわば“日本中世考古学の聖地”なのです。
さらに、一乗谷は「日本のポンペイ」ともいわれています。戦国時代から江戸時代へという大きな時代の流れの中で、福井城という新たな城と城下町がつくられて、一乗谷は使われなくなった結果、山などの高いところにある地面が雨風で削られて、谷底の建物の跡などを埋めていきました。それが400年も続いて、一乗谷の城下町はまるごと土に埋まり、土の中で守られて保存されてきたのです。

町の道は縦横、碁盤の目のように造られていて、一乗谷が計画的に整備された町だとわかります。
「復原町並」の一角の、武家屋敷の門前にて。

──一乗谷がそれほど貴重だったとは…。では、今回明かされる一乗谷にまつわる3つの謎について、少しだけヒントをいただきましょう。1つ目の謎は、「なぜ一乗谷は平野ではなく、山間に築かれたのか」ですが、そもそも当時、山間に築かれた城って珍しかったんですか?

そんなことはありません。戦国時代には、山間に城を築くことは珍しいことではありませんでした。しかし、その多くは、戦うときに使うとりでとしての城だったのです。一乗谷の場合は、越前という国の首都としてこのような山間の谷間につくられたところが、大変珍しいことでした。
都市をつくるには広い平野がなにかと便利です。しかし戦いになったときのことを考えると、平野には山や谷など防衛の頼りになる自然がありません。戦国大名たちにとってはハイリスクです。また、そのような危険な城下町では、商人や職人も安心して暮らせません。そこで、あえて広い平野のまん中ではなく、山間に城と大都市をつくったのが一乗谷でした。
ところが一乗谷は山間にありながらも、平野の都市に比べて不便ということはありませんでした。それはなぜかというと…。そこを1つ目の謎で解明していきます。

一乗谷は、その名の通り、両側を山に囲まれた谷。戦国時代、山には山城が築かれ、ふもとには城下町が栄えました。

──2つ目の謎は「なぜ一乗谷が繁栄を極められたのか」ですが、当時の一乗谷って、現代でいうとどれくらい栄えていたんですか?

現代で例えれば、東京のような都市だったといえます。一乗谷は、当時の全国的な物流をおさえ、地方から運ばれる重要物資、生活必需品をおさえていました。物資ばかりでなく、情報や文化も一乗谷に集まっていたんです。戦国時代には京都の朝廷や寺社勢力がかつての力を失っていく中で、京都に代わって地方の拠点的な城下町が力を持っていったのです。

2つ目の謎の手がかりは、一乗谷の町からたくさん発見された、高級な「笏谷石しゃくだにいし」。

──一乗谷が、戦国時代の東京! なぜそこまで一乗谷が栄えたのか、ますます気になります! そして、3つ目の謎が「なぜ一乗谷に、たくさんの庭園が造られたのか」ですね。

戦国時代、京都が力を失っていくと、戦国大名たちが本拠とした地方の城下町が一番の文化の担い手になります。今の時代ではイメージできませんが、地方こそが日本の文化をつくっていった、けん引していた時代でした。その中で、一乗谷の庭は当時の文化の最高峰のひとつ。都ではなく地方が新たな文化をつくっていく、そのための経済力も情報力も持っていたということを、見事に示しています。
一乗谷の城下町にのこる数多くの庭は、京都の武家文化を基盤に造られています。しかし、単純に京都の庭を模倣していたわけではありません。そこには大きな意味があったのですが…。なぜかは、番組をご覧ください!

発掘によって姿を現した一乗谷の庭。

──最後に、千田先生イチオシの見どころを教えてください!

番組の中で、かつて明智光秀がいたという屋敷跡を訪ねたんです。そこは、城下町を仕切る城門の内側にある武家屋敷の一角ではなくて、まったく意外なところにありました。実はこれには深い理由があるのです。そして、それは一乗谷の城下町を読み解くもうひとつの鍵になります。明智光秀と一乗谷の城下町にどんなつながりがあるのか、ぜひご覧いただきたいです。

大河ドラマ「麒麟がくる」でユースケ・サンタマリアさん演じる朝倉氏最後の当主・朝倉義景の館だった「朝倉館跡」前にて。

連載コラム「教えて!千田先生」
“城歩きのコツ” その5

地図は、さまざまなことを教えてくれますよ

一乗谷のロケでは、国土地理院のタブレット用アプリ地図を使用しました。

城に行くときには、地図を持っていくといろんなことがわかります。城の全体像、区画や建物の配置と位置関係、そして自然地形をどのように利用しているか、などです。今回の一乗谷でも、『城戸』と呼ばれる城門が、谷がもっとも狭くなっているところに計算して造られていることがわかりました。そのほか、城を見学するときの時間配分の計算にも役立ちます。地図は国土地理院の縮尺2万5千分の1のものなどがおすすめです。タブレットで見ると拡大縮小も自由にできて便利です。

地図で、城門がどのような地形を利用して造られているかを確認している千田先生(左)。タブレットなら、気になる部分は拡大して確認することができます。

絶対行きたくなる!ニッポン不滅の名城「一乗谷」

【放送予定】12月4日(金)[BSプレミアム]後10:00

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