あの日のことを「1号」に聞いてみた。

2011年、ツイッター「NHK_PR」は運用を開始してから1年ほどが過ぎました。日本でもさまざまな企業などがツイッターを開始し、注目されてきた中で東日本大震災が発生しました。NHKでツイッターを始めていたのは、ニュースやNHK_PRなどごくわずか。

当時、NHK_PRツイッターを担当していたのが、通称「1号」(当時NHK職員)。未曾有の災害、目を疑うような被害の情報の中で、震災とどう向き合ったのでしょうか。そして、震災から10年を迎えた今、東北のこと、テレビのこと、ツイッターのことを、現在NHK_PRツイッターを担当するスタッフが話を聞きました。

地震発生前日、パソコンに単語登録をしていた。

──1号は、2011年3月ごろ、広報局の職員として、どんなことをやっていたんですか?

1号:ツイッター以外もやっていたんですよ、ちゃんと(笑)。あのころは「NHKスペシャル」のポスター制作とか、いろいろな番組告知スポットの制作をやってましたし、ドラマのPRもしていました。

──当時「ユルい」ツイートで人気でしたが、災害時に何かしなきゃという気持ちや準備はありましたか?

1号:マニュアルを作るとかはしていなかったけど、2011年の正月には山陰地方で大雪があって今こういうことが起きていて全国的には大きく報じられていないけど、気にかけていることを伝えたかったので、雪のツイートもやっていた気がします。でもそんなに本気ではないというか、災害を背負えるような立場じゃないし。テレビ見てラジオを聞いて、わかりやすく書き直して出してるだけでした。でも、3月11日の2日前(3月9日)に地震があって津波注意報が出たので、単語登録をして、「つ」って打つだけで「津波」って出てくるように、早く津波注意報が出たら打たなきゃ、早く打てるために単語登録をしていました。

「とにかく逃げろ」

──そうしたら、本当に。

1号:2時46分に地震が発生して、大津波警報も出た。これはもう、しつこいくらい「逃げろ!」って出していいって思いました。たまたまツイッターを開いた人のタイムラインに一番上に出てる状態にしよう。タイムラインを「逃げろ」という文字で埋めてやろうって思いました。前に僕は「週刊こどもニュース」(1994-2010)を担当していて、スマトラ島沖地震が起きたときに津波の取材をやったんで、むちゃくちゃ怖いってのを知ってたから。

──東京も大きく揺れる中、ツイートすることに恐怖はなかったですか?

1号:怖いとかはなく、とにかく逃げろと。それしかやりようがなかったです。怖かったのは、その後、原子力発電所関連の情報を出すときでした。まだわかっていない状態で実際に何が起きているか。公的機関からの発表がない状態だけど、原発に何かあったらしいっていう状況でした。とにかく屋内に避難しましょう、10キロ圏内の人は、とか。でも、それも勝手に出すわけにもいかないんだけど、解説委員が放送で伝えたので、その通りに書きました。
そうしたら「そんなあやふやな情報で、もし違ったらどうするんだ」みたいなリプライがわんさかきたんだけど、「大丈夫です」と、「公的機関から発表ありませんから、表に出ても平気です」って言うよりは、不確かかもしれないけれど「室内にいましょう」と伝えたんです。

「クビになるだろうな…」

──地震発生から2時間ほど経って、当時、広島在住の中学生が、テレビが見られない人のためにNHKテレビの放送をUstream(当時普及しつつあった動画配信サービス)に乗せ、そのことについてNHK_PRツイッターが好意的な反応をしたことに、さまざまな意見がありました。

1号:これはむしろ「なるほどな」と思ったんです。彼がUstreamで流してるのを見て「なんで俺たちはこれを思いつかなかったんだろう」って。ただ「すごい怒られて、クビになるだろうな」とは思ったけど、でもそれは僕が怒られるだけで人命にかかわらない。何のためにNHKってあるんだろうって話だから。もちろん、その直後にはニコニコ動画などのNHKの同時再送信で、ニュースが見られるようになりました。

「あの50分、もっと頑張れたはず」一番の後悔。

──震災から1年経ったときだったと思いますが「私は2時46分ではなく、津波が到達した時間に冥福を祈ります」とツイートしたことがありましたが。

1号:あれは東北に行ってからそう思った。行かないとわかんない。津波がきた3時半とか、3時40分くらいに多くの命が本当に失われた。だからあの日、2時46分から3時40分の約50分間、もっと頑張れたんじゃないか。もっと死に物狂いで何か伝えられることができていればと、それは一生反省するというか。まだ時間があったのに。
東日本大震災のとき、揺れではそんなに人が亡くならなかった。阪神淡路大震災のときは地震の瞬間に家がつぶれたり、火災で亡くなった人もいる。神戸は地震が起きたらあんまりできることがなかった。東日本は、地震が起きてからもっともっとできることがあったはずで、一番悔いが残っています。

──それは、あのあと、そして今も、多くの人が感じていることかもしれませんね。

ぐちゃっとなったものを、ちゃんとする。

──発生から1週間近く経って「今からユルいツイートをします」と表明し、震災前のツイートに戻したら、賛否両方の反響があった。

1号:正直、このツイートをするのも怖かったです。でも「(この空気に)巻き込まれちゃいけないよ」っていう感覚が大事だと思っていました。誰かを助けたいときはこっちが強くないとだめなので、強さをキープするためにはこっちがしっかりしなきゃと思ったんです。一緒になってオロオロしてたら疲弊していきますから。ラグビーみたいなもので、タックルされたらフォローに入るみたいな。ふかんするためにはボールの場所に行ってはいけなくて。一歩手前でそのあとボールがどう行くかを見なきゃいけない。
あのころ、みんなピリピリしてました。世の中全部にピリピリしていたのがよくないなって思って。で、いつもの番組PRをやって、めちゃくちゃ怒られるんですけど(笑)。「この状況で何をやってる!」って。そうなんだけど、でも誰かがそれをやらないとだめだって思って。

──よく、やってみようと思いましたね。

1号:Ustreamの件でNHKをクビになると思ってたから、もういいやと思って。でも「ぐちゃってなったものを、ちゃんとする」という作業だから、怒られても僕は平気。日常を取り戻そうという作業なので、それは僕の中にある公共放送像のひとつです。NHK_PRツイッターをやってたとき、常に意識してたのは「公共」っていうこと。1人でも困っていたり、つらいと思ってたら、それを減らしていく作業。不安になっている人がいたら、少しでも肩の力を抜いてもらえるようなことができればと思っていました。

東北のみんなに「ドヤ顔」をしてほしい。

──その後、東北に行かれて、感じたことは?

1号:僕は道に迷うし用意ができない、役に立たない人間なので、旅に行くと現地の人が本当にハラハラして助けてくれるんですよ。ご飯どうするの? どこに泊まるつもり? と。みなさんに助けてもらって「ありがとう」と言う。そこで気づいたのは、被災した人たちは、ずっと「ありがとう」と言い続けている。僕が東北に行くと、立場の逆転が起きるのがいいなと。

──東北の人が「ありがとう」を言われる側になる。

1号:時間が経つと「ありがとう」ってまだ言わなきゃいけないのかと思い出す人たちがいます。いつまでたっても上下関係。被災者と助ける人、本当は上下関係じゃなくてたまたまのポジションなんだけど、なんか固定化され続けて、頭を下げ気味に生きる。これは、あんまりよろしくない。元気が奪われちゃう。みなさんに「ドヤ顔」をしてもらいたい。あ、そうそう、東北はどこ行っても料理の量が多い。あれ、僕は試されているのかって思うんだ。ごはんは「並」って言ったら、東京(の店の)大盛りが出てくるからね。「ごはんは1/4で」って言わないと、えらいことになるんです(笑)。

──そして今回「東北ツイート聞き語り旅」という企画を…。

NHK東日本大震災プロジェクト #それぞれの3465日 東北ツイート聞き語り旅

東北エリアをバーチャルで旅して、現地の方々のお話を伺いながら、その様子をツイートするという企画。3月1日~3月5日まで実施。

https://www.nhk.or.jp/ashita/kikigatari/

1号:本当なら現地に行って、各地からツイートをしようと思っていたんですが、コロナとこの間の地震で行きづらい状況になってきたので、バーチャルトリップみたいな形で東北の人と話をします(取材はツイート旅の実施前。東北ツイート旅は3月1日から実施)。

──どんな話を聞こうと思っていますか?

1号:むしろ「311」の話じゃない、あの日からの3654日を聞く。例えば2014年何月何日に、この日に俺すし屋になろうと思ったんだよね、とか。気仙沼の若い子は、大学は外に出たから、4年間外に出て気仙沼に戻ろうと思った子たちが何人かいる。彼らが「気仙沼に戻ろう」と思った瞬間について聞けたらいいなって思います。
一人一人の体験も聞きつつ10年間の変化が聞きたい。あの日のことより、その日から今日までのう余曲折、ラッキーがあったり、しくじったり…。東北から離れている僕らの日常がデフォルメされているんですよ。だから、今の状況が明けたら、もっと旅に出たい。

「風化する」ことは「風になること」

1号:「風化させてないけない」という考え方がありますが、僕は風化というのは「風になる」、風になって、常にそこに漂い続けるという意味もあると思っています。意識はあるけど、風のように痛くなくなるもの。つぶてではなくなっているんですよ。10年前に「名前も顔も出す。インタビューに本気で答えるから絶対に放送し続けてくれ」って言ってた人が「もう、あれ(やめても)いいかな?」って(笑)。変化があるんですよ。時間がたつと変わる、それがおもしろい。
今回は、リモートの形で、いろんな人と話をしたいと思っています。「最近どう?」って話を聞きたい。テレビ番組はどうしても小さい声は取り上げにくい。小さな声として話を聞いても、放送に乗ったらそれは「大きい声」になっちゃうので、小さい声を小さい声のまま届けたいな。今回は東日本から10年だけど、さまざまな災害…熊本も、広島も、新潟も、胆振も、いろんなところでいろんなことが起きていて、でも友達になって行ったり来たりするだけでもいい。
だからみんなにありがとう、一緒に遊ぼう、って変わらずに思っています。

<座談会を終えて>

あの日のことを振り返りすぎるのも…と思っているのですが、ひとつだけ記させてください。現在NHK_PRツイッターを担当しているメンバーは、当時それぞれ、報道の現場や地域局などで仕事をしていました。
そのうちの一人、わたしは、地震発生の瞬間、渋谷の放送センターで翌日の生放送の準備をしていました。もちろん、その番組はなくなってしまいました。関係者に「番組中止」の連絡をしようにも電話がつながらない。だいぶ時間が経ったころ、局内の休憩スペースで「1号」に会いました。飲み物を買いに来たのでしょう。私の顔を見るなり1号は「大丈夫だった?」と声をかけてきました。地震発生後、大勢のスタッフが緊急報道や地震の対応に追われる中で、初めてきちんと会話をした人でした。今、こうしてNHK_PRツイッターの担当をしているのは偶然ですが、それでも私にとって、あの日に「1号」と会話をしたことは忘れられないのです。
いまでは、NHKでも地域局はじめたくさんのツイッターアカウントが増え、放送以外でも最新の情報をお伝えすることに努めています。これからも、どうぞよろしくお願いします。

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