テレビ業界のネタとしてはマニアックかもしれないけれど、夢のある話

アナウンサーのようにテレビ画面に華々しく映るでも、記者やカメラマンのように現場に駆け付けるでもなく、彼はこの2年間、ただひたすら“光”と“ミニチュア”に向き合ってきました。

そんな彼をここで紹介するのは少しマニアックかもしれません。マニアックすぎるかもしれません。

でも、その先には誰も見たことがないワクワクするようなテレビの未来が待っている。

そう思わせてくれた、あるプロフェッショナルな男の話です。

【圧倒的カタカナ感】

NHKで働くさまざまな「プロフェッショナル」の仕事の流儀を伝えようと始まったこのコーナー。次の特集で誰を取り上げるか、編集部で候補者選びをしていた時にふと目に留まったのが、NHKの技術部門がネット上で公開していた資料です。

そこに「手話CG」や「機械翻訳」などの言葉とともに並んでいたのが、“インコヒーレントデジタルホログラフィー”なるもの。

「え、コーヒー?」
その圧倒的なカタカナ感。そして手軽に飲めそう感。どうやら何かの技術のようですが、一切の説明を省いたその一行からは、読者に分からせることをあきらめたかのような、ある種の潔ささえ感じます。でもこうやって推されているくらいなので、きっとすごいものに違いない。

名前からは想像がつかないその何かを知りたくて、この研究をしているという人物に会いに行くことにしました。

【知られざる研究施設に潜入】

彼の名は室井哲彦、46歳。優しそうな雰囲気と隠し切れない理系のにおいを身にまとった室井は、快く私(筆者)を迎えてくれました。

室井が働くのは渋谷の放送センターではなく、東京 世田谷区にある「NHK放送技術研究所」、通称「技研」です。あまり知られていませんが、実はここ、放送に関する技術を研究・開発する国内唯一の研究機関です。

▶︎ NHK放送技術研究所ホームページ

1930年(昭和5年)に設立され、90年余りの歴史を誇っています。

これまでにハイビジョンや衛星放送など、数多くの放送技術を開発し、その発展に大きな貢献をしてきました。ちなみに前回の東京オリンピックで、世界で初めてオリンピックの国際衛星中継を成功させたのも技研の成果の一つなのだとか。

室井はこの技研で働く200人余りの研究者の一人。意外と研究者多いですね。

この技研、NHK職員にとっても謎の多い施設で、私も中に入るのはこの日が初めてです。研究機関とあってか警備は厳重で、登録者以外はたとえ職員でも無断で立ち入ることもできません!

私も自動改札機みたいな入口のゲートでひっかかり、頬を赤らめながら受付を済ませて、ようやく入ることができました。

【教えて室井さん!】

前置きが長くなりましたが、知りたいのは「インコヒーレントデジタルホログラフィー」です。

早速、頭に叩き込んできたその名前を室井にぶつけます。

(筆者)「室井さん、インコヒーレントデジタルホログラフィーって何ですか?」

(室井)「はい。通常のホログラフィーって、レーザー光を使っているのですけれど、レーザー光を使わないで理想的な三次元情報を取得することができる技術です」

(筆者)「・・・・はぁ」

完全な文系人間の私にとって、これは難敵かもしれない…。軽い気持ちで来たことを後悔しつつ、とりあえず話を進めることにしました。

(筆者)「ちなみにそれはざっくり言うと、どういう仕組みですか?」

(室井)「ざっくり言うとビームスプリッターで光を2つに分けて平面鏡と凹面鏡で反射させると光路長が少し変わるので、それで干渉縞(かんしょうじま)を生成して…干渉縞の位相が2分のπずつ異なるものを…」

意識が遠のくなかで、あの有名な鬼の漫画に出てくる言葉を心の中で繰り返します。

「おれは折れない! あきらめない!」

ありがとう、炭〇郎。心を落ち着かせて、再び室井と向き合います。幸いにも相手は外部の研究者ではなく、同じ職場の仲間です。焦らずに1つずつ確認していくことにします。

(筆者)「では、今出てきた干渉縞というものが、どんなものか教えてください」

(室井)「例えばしま模様のネクタイをカメラで撮影した時にネクタイの模様とは違う模様が上に乗ったりするじゃないですか?」

(筆者)「ネクタイ撮ったことないですね…」

(室井)「・・・・・・・」

いつまで続くんだこのやり取り、そう思った皆さま、安心してください! このあと時間をかけて懇切丁寧に教えてもらったので、ここからはかいつまんで、ご報告いたします!

【完全なる3次元像を目指して】

室井が研究しているのは、ある物体を撮影したときに、写真のような2次元=平面の表示ではなく、3次元=立体像(ホログラム)で映し出すことができるホログラフィーという技術の1つです。

この技術を使えば、3Dメガネで見るような立体像とは違って、肉眼でかつどこから見ても立体的に見ることが可能な、いわば“完全な3次元像”を作り出すことができます。

理論としては以前から知られたものですが、今の技術では撮影にレーザー光を使う必要があり、撮影場所や対象物が限られてしまうという制約があります。レーザー光が目に入ると失明のおそれもあるので、人を対象にすることもできません。

室井はレーザー光ではなく、LEDなど普通の光を使うことで、どこでも、何に対してでも使える技術を開発しようとしているのです。

ちなみにレーザー光のような光がもつ特徴を「コヒーレント」といいます。そうではない光を使うことから否定を意味する「イン」が付いた「インコヒーレント」

そして通常の写真で使われる乾板ではなく、イメージセンサーを使うので、「デジタル」がついて、「インコヒーレントデジタルホログラフィー」といいます。

【記憶の中にある“夢のテレビ”】

突然ですが、ここで改めて室井を紹介させてください。
ドキュメンタリー番組の中盤に挟み込まれる、よく見るあれです。

室井は電気通信大学・大学院(博士)を卒業。在学中はプラズマディスプレーや立体ディスプレーなどの研究に没頭したといいます。そんな室井が就職先として選んだのは、数ある日本の電機メーカーではなく、NHKでした。

「メーカーを考えたこともあるのですが、NHKは研究の成果を製品として売るわけではないので、儲からないから作らないではなく、たとえ1つしか作られなくても、それを認めてもらえれば、放送の現場で使ってもらえる。そこにとても魅力を感じました」

2004年にNHKに入局。冷陰極ディスプレーやホログラムメモリー(説明は長くなるので割愛いたします)などの研究を経て、2019年度から今の研究を始めました。室井が思い描いたのは少年のころに見たマンガの一場面です。

「藤子・F・不二雄先生の『21エモン』というマンガに立体テレビが出てくるのです。それは、テレビからものすごく大きな立体像が飛び出してくるものでした。そんなテレビが実際にあったらおもしろいなというのが、頭にありました」

夢の実現への第一歩。しかし、現実は予想以上に苦悩と苦労の連続だったといいます。

【暗中模索の日々】

室井が研究を始めた当初、同じような先行研究は、世界でも数例しかなかったといいます。それも理論的な方法は論文に書かかれているものの、実際の撮影方法となると分からないことだらけだったといいます。

「論文を読んでも細かいノウハウやテクニックは書かれていないので、自分たちで実験を繰り返して1つ1つ確かめていくしかありませんでした」

ここで、室井が取り組んでいる実験の仕組みをできるだけ簡単に説明します。

室井が使っているのは、上の写真にあるように緑色のLEDライトと牛、電車、木などのミニチュアです。LEDライトの光は、牛や電車に当たって反射します。反射した光はレンズなどを収めた箱に開けられた穴を通って、中に入ります。

ピンホールカメラをイメージしていただくと分かりやすいと思います。

そして箱の中でその光を2つに分けたあと、異なる種類の鏡に反射させることで、少しだけ光に違いを生じさせます。そして、イメージセンサーを通過する際に、再び光を1つに重ね合わせます。

このとき、波である光と光が重なり合うことで、最初に出てきた「干渉縞」と呼ばれる縞模様がイメージセンサーで撮影されるのです。

この干渉縞には光の「色」「強さ」、それに「奥行」に関する情報が記録されています。

もともと、この光は牛や電車などの物体から反射してきた光です。つまり「干渉縞」に記録されているのは、この牛や電車の「色」や「強さ」、「奥行」そのものであり、その干渉縞から光を再現することであたかもそこに同じものが存在するかのように、立体で表現することが可能になるという訳です。

【誤差は0.01ミリメートル】

文字にするとなんだか簡単そうに見えますが、実際には高く険しい壁が立ちふさがっていました。

まずは実験に適するように、物体から反射した光を箱の中へと導くところから始まります。そのため「光と物体までの距離」や「光を当てる角度」などを何度も調整したといいます。

そして、なにより大変だったというのが、光を2つに分けたあと、再び1つに重ね合わせる作業です。

LEDライトの特性上、2つの光が通ってくる距離や角度をほぼ同じにしなければ、求めている形の「干渉縞」をつくることはできません。

許容される誤差は10マイクロメートル。つまり約0.01ミリメートルです。
そして、それを合わせる方法は、なんと手作業!!

「少しずつ距離などをずらしては試してみるという地味な作業の繰り返しでした。うまくいかない時は、何をしていても『何が原因なんだろうとか、あの方法はまだ試していなかったな』とか、どうしても頭に浮かんでしまうので、やっている最中は苦労しかありませんでした」

話を聞いているだけで、気が遠くなるような作業の繰り返し。手探りという言葉の本当の意味を知った気がします。

【縞に見えない縞】

もう1つ室井を苦しめていたのが、“縞に見えない縞”です。

「干渉縞」はその名のとおり、ふつうは縞模様のように見えます。一方、室井が撮影していた「干渉縞」が上のグレーの写真です。

いくら目を凝らしも私には何も映っていないように見えます。室井に尋ねると予想外の答えが返ってきました。

「私にも見えないんですよね」

え! どういうこと?
実は室井が撮影している干渉縞は明暗の差があまりにも小さすぎて、画像を拡大してもモニターに映し出すことができないのだといいます。

そう、つまり室井は2年近く、見えないもの、確認できないものを撮り続けていたのです。

理論上は撮れているはずなので、ここに縞があるはずだと信じてやっていた感じですね。ただ、本当にこんなものから像ができるのかって、自分でもにわかには信じがたい気持ちもありました」

【ついに出た!】

室井が試していた技術は、ほんの少しだけ光の角度をずらして撮影した4枚の「干渉縞」のデータをパソコン上で計算して、元の像を再現するという方法です。

先ほど書いたように干渉縞はただのグレー画面にしか見えません。うまくいっていない場合は当然、計算したところで画像にもなりません。見えない縞と悪戦苦闘していた室井にとって、自分のやっていることが間違っていなかったと知るときは、最終的に画像が表示されたときだけなのです。

数えきれない失敗を繰り返すなか、ついにそのときがやってきます。

去年11月、室井は月内に予定されていた内部での研究発表に向けて、急ピッチで実験を進めていました。

何度目の挑戦かは分かりません。ただ、そのとき、モニター画面には確かに、木の下でくつろぐ牛、ではなくシマウマの画が映し出されていました。国内の研究ではまだ発表されていない初の成果です。
(最初に成功したときは牛ではなく、シマウマだったそうです。白黒模様が共通ですね)

2年がかりでたどり着いた場所。ストーリーで言えばクライマックス。至極のコメントをもらおうと、その時の気持ちを尋ねました。

「まあ感動というかホッとした感じですかね」

ザ・クール。

「当然出るはずだと思っていましたし、これで発表も乗り切れると思いました」

このご時世、みんなで打ち上げというわけにもいかず、ひとり自宅で乾杯したそうです。

【だけど、まだ始まったばかり】

室井の夢である立体テレビに一歩近づいた。
確かにそれは間違いありません。
ただ、ここからさらに大きな課題が待っているといいます。

「課題を挙げたらきりがないんですよ。まだ画像を映し出すことに成功しただけで、画質をさらに良くしないといけないですし、今のように1枚の画像の撮影に30秒近く時間がかかっていては、動画を撮ることもできません。現実を知れば知るほど夢は遠くなりますが、実現したいなという気持ちはもちろんあります

インコヒーレントデジタルホログラフィーで撮った3次元情報を立体像で表示できたという研究成果は、今のところ世界的にみても確認できないそうです。

だからこそ、もし開発に成功したら。そう考えるとなんだかワクワクしませんか?

自宅のテレビから飛び出した動物やお気に入りのアイドルが完全な3次元像として、目の前で動き回る。誰も見たことがない、そんな新しいテレビがいつの日か実現するかもしれないのです。

夢の実現に向けて、室井はきょうも熱意を心に秘めて、静かに“光”と“ミニチュア”に向き合っているはずです。


執筆:管野彰彦(広報局)

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