城マスター・千田嘉博先生が、会津若松城の魅力をとことん語る!

絶対行きたくなる!ニッポン不滅の名城「会津若松城」

10月1日(金)[BSプレミアム・BS4K]後10:00

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全国の名城にまつわる3つの謎を最新研究をもとに解き明かし、その魅力に迫るシリーズ「絶対行きたくなる!ニッポン不滅の名城」。10月1日放送回では、鶴ヶ城の名で親しまれる福島・会津のシンボル「会津若松城」にスポットを当てます。

巨大な石垣や堀に囲まれ、均斉の取れた白亜の五重天守がそびえる会津若松城。東側の石垣がほかに比べて際立って高いのは、なぜ? 会津の地に東北最大級の天守が造られた理由は? 珍しい赤瓦が天守に使われているのは、どうして!?

3つの謎を解き明かすのは、もちろんこの人、千田嘉博教授(奈良大学)。「城マスター」こと千田先生に番組の見どころをじっくりお聞きしました! 城巡りの達人ともいえる千田先生オススメの“城歩きのコツ”もどうぞ〜!

東北を代表する名城・会津若松城

──「会津若松城」を取り上げると聞いて、どうお感じになりましたか?

会津若松城はたいへん特色がある城で、特に東日本の城の中では特別な存在です。以前からぜひこの番組でご紹介したいと思っていたので、とてもうれしく感じました。

会津若松城の魅力は、まず建物が正確に再現されていることです。会津若松城は、明治期の写真が残っていて、その姿を詳細に知ることができます。これを参考に調査研究に基づいて建物が復元されていますから、天守をはじめやぐらや長屋など、当時の景観をそのまま味わうことができるんです。そしてもう1つは、城の中心部の構造がほぼ完全に残っていることです。石垣や堀がとてもよく残っていて、「西出丸」、「北出丸」といったこの城の特徴的な区画が、それぞれどのような機能を果たしていたのか、どれほど大きな役割を持っていたのかがわかります。歴史的にもたいへん重要な城であり、そこが魅力だと思います。

兵が石垣上の櫓に上り下りするための階段「武者走り」。会津若松城に残る武者走りは、V字型。そこにはある理由が。
天守と門や櫓を廊下でつなぐ「南走長屋」と「干飯ほしい櫓」(復元)。
藩主が客人をもてなしたとの記録が残る「御三階」と呼ばれる建物。

──第1の謎では、「城の東側の石垣がなぜ際立って高いのか」が解明されます。予習のために、会津若松城の石垣の特徴を教えてください。

よくぞ聞いてくださいました! 会津若松城では、復元された天守や櫓、長屋(多聞櫓)などの建物が注目されがちですが、実は石垣がすごい城なんです。まず、天守をのせる天守台の石垣は非常に古いもので、自然の石をほぼそのまま巧みに積み上げた野面のづら積み」と呼ばれるものです。城内にはほかにも、少し時代が下って石を人工的に割った「荒割り」と呼ばれる技術が使われている石垣もあります。そして、さらに新しい、石の形そのものをきれいに整えた石垣もあります。このように石垣をよく見ると、その石垣が造られた時代がわかります。そして、それぞれの時代に、この城をどのような城にしようとしていたのかを読み取ることができるのです。

また、土の斜面と石垣を組み合わせた「鉢巻石垣」と呼ばれる特色ある石垣も見られます。これは東日本で発達した土の城の技術と、西日本で発達した石の城の技術が融合したものです。そして、20メートルを超えるような高い石垣もありますが、これは東日本では珍しいものです。このように日本の城の文化の中でも、たいへん特別な城であることが、石垣からよくわかります。

高さ20メートル、長さ100メートルもの巨大な石垣から、会津若松城の鉄壁の防御力を解明する。
野面積みと切石の石垣が隣り合わせになっている一角も。

──第2の謎は、「なぜ会津若松城には巨大な天守が造られたのか」ですね。どんなことが糸口となりますか?

現在の会津若松城の基本を造ったのは、蒲生氏郷がもううじさとという大名でした。氏郷は近江の出身で、織田信長や豊臣秀吉に仕えて活躍し、会津にやってきて約90万石という全国屈指の大大名になりました。当時は日本中で大名を中心に町や社会が作られていく、時代の変わり目の時期です。なぜ蒲生氏郷のような大名が、そのようなタイミングで西日本から会津に来ることになったのか、それを考えることが、第2の謎の大きなヒントになります。

蒲生氏郷のあとも、大名は替わりましたが会津若松城と城下町の建設は続けられ、「そう構え」と呼ばれる外郭で城下町の中心部を囲う、広大な城が出来上がりました。それは会津という土地が持っていた潜在的な力を、新しい時代に合う形で活かしていくことだったのです。

会津若松城の城下町は、総延長6キロメートルにおよぶ外堀と土塁で囲まれた「惣構え」と呼ばれるつくり。
第2の謎解明のため、会津盆地の巨大山城を調査!

最大の特徴・赤瓦の謎も解明!

──そして第3の謎では「会津若松城の屋根瓦がなぜ赤いのか」が解明されますが、このように特徴的な瓦を使った城はほかにあるのでしょうか。

城といえば瓦ぶきのイメージですが、戦国の城のほとんどは瓦ぶきではなく、板ぶきやかやぶきでした。その後、畿内を中心に、お寺が持っていた瓦をふく技術を使った、瓦ぶきの城が登場してきます。中には個性的な瓦を使った城もありました。

例えば、名古屋城などのような、銅の板を屋根に貼る「銅瓦」。あるいは金沢城のような鉛の板を貼った「鉛瓦」。また、丸岡城などのように笏谷石しゃくだにいしという石を瓦にした城もありました。これらの城には、なぜ珍しい瓦を使ったのか明確な理由があります。多くの場合はその土地の風土に関係があるんです。会津若松城の赤い瓦についても、会津ならではの明確な理由があるということを、番組で明らかにしていきます。

天守に赤瓦が使われている会津若松城。白い壁に赤い屋根が美しい。

──今回のロケで、最も印象に残っているのはどんなことですか?

いちばん印象的なのは、会津若松城がとてもムダなく合理的に、巧みに造られていることでした。堀や石垣やその配置が、名人技といっていいくらい見事な技術で、地形を生かしながら最適の形で造られていました。合理的に守り反撃するという、城に求められる機能をこれほど高度に達成し、なおかつたいへん美しい城に仕上げられているという点では、近世城郭の一つの到達点だと思います。蒲生氏郷、加藤嘉明・明成といった築城の名人と呼ばれる人たちが、本当に腕によりをかけて造りあげた名城だと実感しました。また、地域の人たちがそれをとても大切にしてずっと守っていらっしゃる、そのことにもとても感動しました。

──では最後に、今回、先生がもっとも「見てほしい!」と思われるポイントを教えてください!

会津若松城といえば、戊辰戦争で明治新政府軍を迎え討ち、1か月に及ぶ激戦に耐えたことで知られています。これは、いかに防御に優れた城だったかを物語るエピソードです。しかし、このときの会津若松城を、新時代に抵抗する古い時代のシンボルととらえるのは間違っていると思います。会津の人々は、常にその時代その時代の最先端のものを取り入れて、独自の文化や技術を作り上げていました。会津という土地が大昔から持っていた強い力を、常にアップデートしていたのです。会津若松城はそのために欠かせないもの。そこには、単に軍事要塞や政治の場所だけではない、城の持つ大きな役割が秘められています。今回の番組ではぜひ、そのあたりを感じていただけたらと思っています。

連載コラム「教えて!千田先生」
“城歩きのコツ” その10

古写真と比較すれば、本来の石垣や建物の姿を知ることができる!

会津若松城の古写真

城の中には、失われる前の姿が写真に残っているものがあります。このような写真を見ることで、本来の建物や石垣などがどのようなものだったのかを、正確に詳しく知ることができます。無くなってしまった堀などの様子もよくわかります。おすすめは、古写真を実際に持って城に行き、その場で今の景観と比べてみることです。今の景観との細かな違いを発見したり、その先にどのような建物、石垣などがつながっていたのかを知ることができたりして、城をより一層楽しむことができます。

会津若松城天守付近を、タブレットの古写真と見比べる千田先生。

絶対行きたくなる!ニッポン不滅の名城「会津若松城」

【放送予定】10月1日(金)[BSプレミアム・BS4K]後10:00

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