アナウンサーの大橋 拓です。
先日、あるラジオ番組で、忘れられない出来事がありました。
ゲストは、ジョン・カビラさん。
ご出演いただいたのは「アナウンサー百年百話」という、2025年にラジオ放送開始から100年を迎える放送の歴史を、アナウンサーの「ことば」から振り返る番組です。
その日のテーマはジョン・カビラさんのふるさと「沖縄」でした。
収録が一段落し、「お話し足りないことはないですか?」とお聞きしたときのことです。
ジョン・カビラさんは少しの間のあと、
「実は今回、自分で調べたことがあるのですが」
と、愛用のタブレット端末を取り出しました。
「私、ここに書いてある文章に大きな感銘を受けまして…」
そう言って見せてくださったのは、「放送法」のある条文でした。
ジョン・カビラさんが、収録後に熱く私に語ってくださったこと。
アナウンサー百年百話での内容の一部とあわせて、ラジオでは伝えきれなかった、私が心動かされたジョン・カビラさんとの話を、ご紹介させてください。
ジョン・カビラさんの父、川平朝清さんが作った沖縄の放送の歴史
本土復帰50年を迎えた沖縄。
ジョン・カビラさんの家族は、その沖縄の放送の歴史と深いつながりがあります。
この日の収録では、ジョン・カビラさんのお父さんに事前に行ったインタビューを、2人で聞くところから始まりました。
カビラさんの父、川平朝清(かびら・ちょうせい)さんは、戦後の沖縄で初めてのアナウンサー。私にとっても大先輩です。
現在94歳の朝清さんは、琉球王朝の流れを継ぐ家系の家の末っ子として、 1927年、日本統治下の台湾で生まれました。終戦の翌年、家族とともに、壮絶な地上戦を経た沖縄の地を踏みます。
息子のジョンさんは、当時の話を、小さいころから何度も聞かされてきたと言います。
ジョンさん
「(父は)台湾生まれ、台湾育ちなので、沖縄に対する思いというのは、ものすごくイメージが膨らんでいて、豊かな緑というイメージがあったにもかかわらず、(初めて沖縄の風景を見たときに)『なんということだ』とショックを受けたというのは聞いています」
戦争によって荒れ果てた沖縄の姿に失望した朝清さんですが、それと同時に「復興のために何ができるのか」という思いを強く持ったそうです。その後、朝清さんの兄が立ち上げに尽力したラジオ放送局で、アナウンサーを担当することになります。
番組ではジョンさんが、朝清さんが当時書いた日記を朗読してくれました。
朝清さんが最初の放送に臨んだのは1949年5月16日のことでした。
朝清さんの日記 1949年5月16日(一部抜粋)
最初のテスト放送、胸の動悸は時間が迫れば迫るだけ、我を忘れるほどでないにしろ、高鳴る。そして人々のラジオの前に集まって、今か今かと待つ顔が頭に浮かぶ。AKAR(コールサイン)の第一声、英語を案外スラスラと、日本語は一気に終わり、レコード2枚をかける。爽やかなうれしさを抑えられないという気持ちで聴いている顔を想像しながら、合図を待つ。
朝清さんがアメリカで学んだ「放送の公共性」
その後、朝清さんは、20代半ばのころ、アメリカのミシガン州立大学に留学しました。その目的は、放送について学ぶこと。番組作りの基本から、放送に関する法律まで、大学院でも専門的に勉強したそうです。
朝清さんに当時の思い出を聞いたインタビューでは、こんなお話がありました。
朝清さん
「アメリカの放送を学ぶにあたって、法制的なことを学んだんですね。
そのときに出た言葉が、“public interest, convenience and necessity” つまり公共の関心、便宜、そして必要性ということを念頭に置いたうえで放送は行われなければならない、この言葉が非常に印象に残って。これこそ沖縄でラジオ運営についての基本であるべきだと思いまして。特に福祉、公衆の福祉を考えるべきだと、非常に意を強くした経験があります」
“ラジオ運営の基本は、公共の関心、便宜、そして必要性にある”。
こうした朝清さんの姿勢は、のちに新たな放送局づくりにつながります。1967年、朝清さんが40歳のときに、沖縄の公共放送として沖縄放送協会が設立され、朝清さんは会長に任命されました。
そして、5年後の1972年、沖縄が本土に復帰すると、沖縄放送協会の業務はNHKに引き継がれます。朝清さんもNHKの職員として仕事をすることになり、ジョンさんと東京に移り住むことになったのです。
“信義にもとることなかれ”
戦後の沖縄で初のアナウンサーとして、そして公共放送の経営者として、沖縄の放送の歴史を作ってきた川平朝清さん。
番組では朝清さんからの、すべての放送人に向けたメッセージを、ジョンさんと一緒に聴きました。
朝清さん
「大切にしなければならないのは、『信義にもとることなかれ』と。
みなさんたちの信頼にこたえるように。その責任は非常に大きいと思いますね。」
朝清さんによると、アメリカ統治下の沖縄では、アメリカに都合の悪いものは放送しづらい雰囲気があり、当局にニュースをチェックされたり、選挙演説の録音を止められたりしたこともあるそうです。そんなとき、朝清さんとともに、放送事業に携わっていた兄は、「それがアメリカの民主主義なのか。言論の自由はどこに行った」と抵抗したと言います。
“父に問われている”~息子のジョンさんが受け止めたこと~
朝清さんの話を聞きながら、ジョンさんが繰り返し語っていたのが、「父に問われていますね」という言葉です。
ジョンさん
「いや、問われていますね。君の信義は何だ? その信義に基づく仕事をきちんとしているのか? もしもできないのであれば、その障壁は何で、それをどのように乗り越えようとするのか? 乗り越えるときに、人々の心に乗り越えるだけの説得力を、君は持っているのか? こういうことですよね」
ジョンさんは自分に言い聞かせるように続けます。
「私たちは、公共の電波を日本政府からありがたく免許を頂いているわけではなく、国民のみなさんが持っている電波を一定の条件で貸していただいている、付託されているっていうようなことが、僕は本質だと思うんですよね。だからこそ、立ち返っていくと、みなさんの福祉とか、みなさんの教養とか、みなさんの興味とか関心とか、それに資するものを届けられているのかってことが、問われていると思いますね」
ジョンさんが最後に見せてくれたもの
冒頭に書いたジョンさんが「自分で調べたこと」。
収録がすべて終わったあとに私に見せてくれたのは、日本の「放送法」の条文でした。
「放送法」は、日本の放送はどのようにあるべきかを定めている法律です。
「(父の話では)“公益に資すること”はアメリカの通信法の大原則の1つで、その精神に基づいて、沖縄での放送(局運営)もこれを指針にして進めたという話がありました。でも大橋さん、日本の放送法もですね…」
そう言ってジョンさんは、自分のタブレット端末に映し出された放送法の「第一章 総則 第一条」と書かれたところを読み始めました。
第一章 総則
(目的)
第一条 この法律は、次に掲げる原則に従つて、放送を公共の福祉に適合するように規律し、その健全な発達を図ることを目的とする。
一 放送が国民に最大限に普及されて、その効用をもたらすことを保障すること。
二 放送の不偏不党、真実及び自律を保障することによつて、放送による表現の自由を確保すること。
三 放送に携わる者の職責を明らかにすることによつて、放送が健全な民主主義の発達に資するようにすること。
「これまた立派な原則を日本の法律も掲げているんですよね! 僕を含めた放送人は、これをどれだけ知っていて、放送の大原則、1丁目1番地ということを自覚しているか。アメリカの通信法に勝るぐらいじゃないかという気もするぐらいの、立派な原則です」
熱意をもって語るジョンさんの気迫に、私は圧倒されました。
ジョンさんが、父である朝清さん、そして沖縄の放送の歴史をテーマとした番組に臨むにあたり、改めて放送法を読み込んでいたこと。
そのこと自体に私は心動かされ、改めて身が引き締まる思いがしました。
「民主主義に資する」ための不断の努力ができているだろうか。
その意味で、自分の「職責」を自覚できているのか。
ジョン・カビラさんが「父に問われている」と言ったことが自分自身に重なりました。
そして、きょうも放送はつづく
きょうもラジオから流れてくる「Good morning!!!」というジョンさんの声。あの包み込むような声は、きっといろんなものを含んでいる。今回はそこに少しだけ、触れることができたような気がしました。
ジョン・カビラさんがゲストとして出演している「アナウンサー百年百話(ラジオ第2、毎週水曜午前10時30分~)」、5月は本土復帰50年を迎えた「沖縄」特集です。
特集最終日の25日は、本土復帰の日にラジオ放送を担当し、その後も沖縄戦を描いた詩の朗読や沖縄民謡の番組司会も務めた、元NHK沖縄放送局アナウンサー・牧港襄一さんに復帰から50年の思いを伺いました。
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【アナウンサー百年百話】
「アナウンサー百年百話」は、日本でラジオ放送を開始してから100年の節目を迎える2025年に向けて、アナウンサーの「ことば」をもとに放送の100年を振り返るラジオ番組として4月からスタートしました。その時々で過去のアナウンサーたちがどう向き合ってきたのかをご紹介していきます。ラジオ第2で、毎週水曜午前10時30分より放送。
(再放送 水曜午後10時・土曜午後3時45分)
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