アカデミー賞の受賞作が決まる3月には、第66回アカデミー賞の作品賞、監督賞をふくむ7部門を受賞したスティーブン・スピルバーグ監督の「シンドラーのリスト」(1993)や、アルフレッド・ヒッチコックが監督賞候補だった「裏窓」(1954)、チャーチル役を演じたゲイリー・オールドマンが主演男優賞を受賞した「ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男」(2017)などが放送される。

プレミアムシネマ「裏窓」
3月1日(水)[BSプレミアム]後1:00〜2:54

プレミアムシネマ「ウィンストン・チャーチル/ヒトラーから世界を救った男」
3月23日(木)[BSプレミアム]後1:00〜後3:06

プレミアムシネマ「シンドラーのリスト」
3月30日(木)[BSプレミアム]後1:00〜4:17
中でも注目したいのが、助演女優賞と撮影賞、という2部門の受賞ながら、いまでは“ニュー・シネマ”の出発点で代表作として知られる「俺たちに明日はない」(1967)だ。劇場公開時、“ニュー・シネマ”という言葉がマスメディアではじめて用いられ、当時かなり低迷していたアメリカ映画復興の代名詞のように一般に普及していった。
その「俺たちに明日はない」(原題「Bonnie and Clyde」)はいかにして生まれたのか?
映画が生まれる3年前の1964年に話はさかのぼる。米「エスクァイア」誌の編集者デビッド・ニューマンと彼のアート・ディレクターの親友ロバート・ベントンはフランスで数年前に起きた新しい映画の流れ、“ヌーベルバーグ”の映画の数々に夢中になり、中でもジャン・リュック・ゴダールの「勝手にしやがれ」(1959)やフランソワ・トリュフォーの「ピアニストを撃て」(1960)がお気に入りで、彼らに自分たちの書いたシナリオを映画化して欲しいと思っていた。そのシナリオは、大恐慌の時代にアメリカ各地を荒らしまわった実在のギャングスタ―、ボニー・パーカーとクライド・バロウの二人を主役にした物語だった。完成したシナリオをまずフランスにいるトリュフォーに送って依頼したが、彼は撮影中の「華氏451」(1966)が資金問題でトラブルを起こして身動きが取れなかったことから自分の代わりにゴダールを推薦してくれた。ところが、彼も新作の撮影を控えていて身動きがとれなかった。
そんなときパリを訪れていたウォーレン・ベイティ(日本ではじめは“ビーティ”と呼ばれていたがのちに“ベイティ”が正しい、と訂正されている)がトリュフォーから「ボニーとクライド」のシナリオの話を聞き、興味を持ったことで映画化の企画が動き始めたのだった。ベイティは主演だけでなく、自ら製作することを決め、かつて彼の出演した「ミッキー・ワン」(1965)の監督アーサー・ペンに話を持ち込んだ。そして、ペンが引き受けたことで撮影がスタートしたのだが、問題はベイティ演じるクライドの恋人ボニーを演じる女優だった。アーサー・ペンは、ブロードウェイの舞台で認められつつあったフェイ・ダナウェイに10キロの減量を命じて起用、アカデミー主演女優賞候補になる熱演をみせたがベイティは最後まで彼女が気に入らなかったといわれている。
完成した映画は1967年8月、モントリオール映画祭で上映されたのち全米初公開。当初は注目されなかったが、パリやロンドンで評判を呼び、それがアメリカのジャーナリズムを刺激して12月8日号のタイム誌がカバーストーリーにとりあげた。この時の表紙に書かれた“ニュー・シネマ”という言葉が一般に広まっていった。
シナリオを描いた一人、ロバート・ベントンはのちに映画作家になり、「夕陽の群盗」(1972)で監督デビュー。続く「クレイマー、クレイマー」(1979)でアカデミー賞の監督賞、脚色賞を受賞。人気監督になった。
プレミアムシネマ「俺たちに明日はない」
3月9日(木)[BSプレミアム]後1:00〜2:52
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【コラム執筆者】
渡辺祥子(わたなべ・さちこ)さん
共立女子大学文芸学部にて映画を中心とした芸術を専攻。卒業後は「映画ストーリー」編集部を経て、映画ライターに。現在フリーの映画評論家として、新聞、雑誌、テレビ、ラジオ等で活躍。映画関係者のインタビュー、取材なども多い。また映画にとどまらずブロードウェイの舞台やバレエなどにも造詣が深い。著書に「食欲的映画生活術」、「ハリウッド・スキャンダル」(共著)、「スクリーンの悪女」(監修)、「映画とたべもの」ほか。