“塀の中”にいる母親たちと出会って、私が考えたこと

「みんなは いまでも ちびちびが だぁ~~いすきです…」

やさしい、絵本を読む声。
静寂のなかで、スピーカーから流れる声に耳を澄ます。

  

ここは図書館? 学校? …いえいえ。私がいるのは、刑務所の中。
塀の外にわが子を残して服役する“母親”たちが、一生懸命に思いを届けようと絵本を読む「声」だ。

大人になって、絵本を読む声をきいて心が震えると思わなかった。

この「声」を聴くために。読む人たちと出会うために。
私は2年越しで、刑務所にたどり着いた。

きっかけはレジ横の手作り冊子

“刑務所に取材にいきたい”
そのきっかけは、8ページの手作り冊子だった。

2019年春、私は山口局に所属する番組ディレクターだった。
育休から復職したばかりで、夫は福岡で仕事をしていたため 1才の息子と二人暮らし。いわゆる“ワンオペ育児”の日々を送っていた。

ある日、取材で足を運んだ下関市からの帰りに、ふと児童書の専門店が目に留まった。とてもかわいい見た目の、木造の一軒家のようなお店。
足を踏み入れると、たくさんの絵本が所せましと並んでいた。

「ああ、こんなにたくさんいろんな絵本があるのに、ふだん全然ゆっくり読んであげられていないなぁ…息子よ、ごめん。」

心の中で謝りながら、赤ちゃん向けの遊び絵本を1冊選んでレジに向かった。

その時、レジ横に置いてあったピンク色の冊子が気になった。お会計をしながら、パラパラとめくる。
「ひろば」と書かれた、この本屋さんが手作りしている情報誌だった。2枚の紙が半分に折りたたまれたシンプルな冊子で、裏表紙にコラムがあった。

村中李衣むらなかりえさんという児童文学作家の方が書いたものらしい。

「事情があって親子で一緒に暮らせない家族のために、お母さんが見えないわが子を心の傍らにおいて絵本を読み、その声を録音して離れているわが子に届けるというプログラムを始めてもう10年以上になる。
…Aさんは、どんどん大きくなっていくお子さんの成長ぶりに自分はどう寄り添いたいのか、どんな声をかけてあげられる母親になりたいのかを考え考え、本番の録音に向けて、今懸命に練習している。
がんばって!」

かわいい子どものイラストが添えられていて見入ってしまった

それは、幼い子どもを社会に残して服役している女性たちが参加する、“絆プログラム”について紹介したものだった。
離れて暮らすわが子に向けて1冊の絵本を選び、2か月に渡って練習を重ね録音した声をCDにして届けるという、珍しい更生プログラムだ。

「おつりです」
そう言われてはっと気づき、冊子を絵本と一緒に袋に入れて持ち帰った。

その夜、私は息子に買ってきた絵本を読んだ。 ページをめくるたび、動物がでてきて「ぎゅっ」と抱きしめていく。 私が「かいじゅうさんがだいすきだから…」と読みながらページをめくろうとすると、息子が「ママ、だっこ」とお願いしてきた。

「ぎゅっ」

言いながら、息子の小さなからだを包み込んだ。

いつもは疲れ切っていて、とにかく早く寝かせることを優先してしまう。
いつまでもコロコロ布団の上で転がって遊ぶ息子に、「寝てって言ってるでしょ!」と怒鳴ってしまったことだってある。絵本を読む時間が、つかの間の心の安らぎを与えてくれた。

絵本が気付かせてくれた、子どもとの時間。

だけど、コラムに書かれた人たちは、子どもがそばにいないなかで絵本と向き合っている。どんな気持ちで読んでいるのだろうか。

本屋から持ち帰ったピンク色の冊子を見返し、私は村中李衣さんを取材してみようと決心した。

ノートに挟まれたまま…

電話口にでた村中さんは、駅構内で移動中だった。
急いでいるわけじゃないから、このまま少しお話ししましょうと言って、絆プログラムのことを教えてくださった。包み込むような、やさしい声だった。

なんでも、村中さんは岡山県のノートルダム清心女子大学の教壇に立ちながら、児童養護施設や介護施設、図書館などさまざまな場所で絵本を“読みあう”活動をしていて、そのひとつが刑務所とのこと。

「山口県の美祢にある刑務所で、受刑者たちと絵本を読んでいるんだけど、すごくすごく良い“読み”をするの。最初は全然うまく読めないんだけど、本当に声が変わっていく。言葉ではうまく伝えられないから、ぜひ聞きに来てほしいわ」

“絆プログラム”が行われるのは年に2か月間で、子どもとの関係を取り戻したい受刑者が希望して参加する。家族とのつながりを築き直すことで、出所後の再犯を防ごうとする更生プログラムだという。

次に始まるのは2020年春。必ず取材に行きます、と話して電話を切った。
まさかその後、新型コロナウイルスの発生や、自分自身の第二子妊娠があるとも知らず。

しかも2019年の夏、山口局から東京の報道局へ異動に。美祢の刑務所からは1000キロも離れ、そう簡単には足を運べる距離ではなくなった。そして「おはよう日本」という朝のニュース番組を担当しながら、新型コロナウイルスによって社会が異常な状況に陥っていくのを目の当たりにした。

マスクを買うために朝からドラッグストアに列ができ、私たちは顔の半分がマスクで覆われた生活に突入した。インタビューもリモートで画面ごしに行うのが当たり前になった。
緊急事態宣言で学校や保育園が閉鎖され、もちろん、刑務所への立ち入りも見送ることに。

そして私のおなかはどんどん大きくなり、あっという間に産休に入り、コロナ禍で出産した。入院中は家族も面会ができず、もう3歳になった息子はテレビ電話ごしに「ママ~」と顔を見ただけでぎゃんぎゃん泣いた。

その後の育休中の生活は、なんだかあまり記憶に残っていない。
コロナ禍だったし、赤子を連れてほとんど遠出はできず、ただただ上の子の保育園の送り迎えをしながら、授乳とおむつ替え、寝かし付けを繰り返す日々だった。

その間も、ピンク色の冊子は、ずっと私の「取材ノート」に挟まったままだった。

次の、来年のプログラムには取材にいけるようにしたい。
ずっと心の隅にあった。
なんでそんなに惹かれ続けたのか、わからない。

第1子の時には、自分が取材してきた企画を他の人が担当することになり、育休中に子どもを抱っこしながらオンエアを見て悔しい気持ちになったことがある。でも、ただ悔しいからとかだけではなく、そばに子どもがいない受刑者たちが、どんな思いで日々を過ごし、絵本を読むことで何を伝えようとしているのか、知りたいという気持ちがあったのだと思う。

子育てで家の中に孤立していると、なおさらその思いは強くなっていった。

刑務所に入ってから、子どもたちとは会えているのだろうか。
どんな気持ちだろう。
子どもと離れ離れになって、「親子」をつなぎとめているものってなんだろうか。どんな思いをこめて、絵本を読むんだろう。
会って、話をきいてみたい。

そして、私の“刑務所へ取材に行きたい”という気持ちを察したかのように、村中さんや刑務所の担当者から近況を知らせる連絡が入り、育休中で消えそうになった私の中の火はなんとか燃え続けた。

眠れない夜

コロナ禍の閉そく感に耐えられず、私は8か月で復帰した。

さて、ようやく「絆プログラム」の取材だ。
法務省や刑務所の担当者の方が「コロナの状況を見ながらですが、なんとか進められるようにしましょう」と前向きに対応してくださり、翌2022年にようやくプログラムへの密着取材が行われることになった。

東京から山口宇部空港へ飛び、そこから車で1時間。
山口局で6年を過ごした私にとっては懐かしい景色が車窓にながれ、いよいよ刑務所、「美祢社会復帰促進センター」にたどりついた。

事前取材として、前年におこなわれたプログラムの録音CDを聞かせてもらえることになった。
「ちびゴリラのちびちび」という絵本を読んだ、女性の声が流れてきた。

一緒に、その絵本を手元でめくりながら聞く。
ジャングルの中の動物たちが、小さな赤ちゃんゴリラの“ちびちび”に愛情もって接する物語。「ちいさいゴリラが だいすきでした」「ちびゴリラが だいすきでした」…何度も、「だいすき」の言葉が入っている。

顔もわからない、どんな人なのかもわからない女性の声。
でも、穏やかでやさしい声の裏で、マイクに向かって必死に読む女性の姿が目に浮かんだ。

最後のページには「みんなは いまでも ちびちびが だいすきです。」と書いてあった。でも、スピーカーから流れてきたのは少し違っていた。

「みんなは いまでも ちびちびが だぁ~~いすきです…」

親として子どもに伝えたい思いにあふれた「だぁ~~いすき」という声だった。
静かな部屋で、やさしく響いた声に鳥肌が立ったのを覚えている。

彼女たちが、絵本を通して真剣に子どもたちに向き合おうとしていることが伝わってきた。
実際にどういう女性たちがマイクに向かい、絵本を読むのだろうか。現場を見たくてたまらなくなった。

いよいよ「絆プログラム」の密着取材が始まるという日の前夜、私は緊張で眠ることができなかった。
刑務所からは、参加する予定の6名の個人情報は一切出さないと言われ、名前も、罪名も、子どもの状況も全くわからない。しかも、コロナがまだ落ち着いていなかったので、インタビューは1人あたり20分。短すぎる。初対面で、何から話そうか。きっと警戒するだろう。

前日、クルーで打ち合わせをして、最初に会ったときは「罪名を聞かない」と決めた。捕まった時のことなんて、聞かれたくないに決まっている。
どういう犯罪をして刑務所にきたのかよりも、今の子どもとの関係や、絆プログラムに参加しようと思った理由のほうが大切だから。

刑務所の一室に撮影機材を運び込み、カメラをセットして、いざ参加する女性たちを待ち受けた。ドキドキ、胸が高鳴る。

刑務官に連れられて入ってきたのは、小柄な女性だった。
受刑者が着る黄色い服をきて、後ろの髪はぎゅっと一つ結び。
「どうぞ、すわってください」と促すと、「失礼します」と丁寧に席についた。

絆プログラムに参加しようと思った理由をたずねると、

「私、子どもが3人いるんですけど、一番下が小学校2年生になったばかりの女の子で、今まで絵本を読んであげたことがなくって。
忙しかったのもあるし、子育てに精一杯で、読もうって思えなくて…。
でも、今がチャンスかなと思って。
私がここにいたせいで子どもたちの入学式や卒業式には出られなかったので、本当に申し訳ない、かわいそうな思いをさせたなって。
逮捕された当時は、一番上の長女がトイレにこもって何時間も泣いてたって聞いたので…。」

思いがけず、返答の言葉が長く続いた。
子どもを親戚に預けていること、今は会えていないから“ママ、ママ”と求めてくれているけれど、刑期が残り短くなってきて子どもの元に戻ることに不安が膨らんでいること、絵本を読む声を届けることで、関係を修復するきっかけにしたいこと。子どもとなかなか会えず、ずっと気がかりだということ。

塀の中で、悩み続けてきたのだ。

その後、5人の女性たちと入れ替わりで順番に話を聞いた。
23才から40才の、6人の“母親”たち。
未婚で出産した人や、離婚してひとりで育ててきた人も多かった。でも、誰一人、子どものことを話すときに嫌な顔はしなかった。
むしろ、離れた今だからこそ、その愛情は膨らみ続けているかのようだった。

不思議な「絵本の力」

“絆プログラム”の初日は、4月のあたたかな昼下がりだった。
かわいらしい表紙の絵本が70冊運び込まれ、真っ白な壁しかない殺風景な教室がパッと明るくなった。

講師の村中さんが準備をしていると、刑務官に連れられた6人の受刑者たちも部屋に静かに入ってきた。
「気を付け」「礼」「お願いします」そんな堅い挨拶から始まったが、村中さんが絵本を手に口を開くと、ここが刑務所だということを忘れそうになるくらい、やさしい時間が流れていった。

6人はみな「離れている子どものために何かできることをやってあげたい」という動機で参加したので、“詰まらずに、上手にすらすら読めるように”としか考えていなかった。
1回目を終えたときには「詰まってしまって、読めない」「字を追うことに必死になってしまう」そんな感想ばかりだった。

本当にここから、「ちびゴリラのちびちび」の声みたいな、心揺さぶられるような読みに変わるのかな… と少し不安になった。

なぜなら、プログラムの中では、ただ“絵本を読む”だけ。
子どもへの思いを語り合ったり、自らの生い立ちや罪に至った経緯を吐露したりはしない。 互いに踏み込まず、ただ「子どもがいる」という共通項しか知らない。

私たちは個別に対話を続けるなかで、6人全員が覚せい剤で捕まったこと、過去に父親から母親へのDVを目の当たりにした人や、母子家庭で育ってほとんど夜は一人で過ごしていた人、母親からの過度な愛情で苦しんだ人など、さまざまな生い立ちを聞いた。

「今までこんなに自分の話を聞いてもらったことない。なんだか聞いてもらってスッキリしました」と言ってくれた人もいて、心の中に封印してきた重荷を少しでも軽くしてほしいと願った。

私の不安をよそに、プログラムが進むうちに6人の「声」はみるみる変化していった。

驚いたのは、村中さんの鋭い観察力だ。

村中さんは彼女たちの過去を無理やり引きずり出すこともなく、ただ「絵本を読みあう」行為のなかで、彼女たちが自分自身に向き合うチャンスを手渡していく。

それはまるで“魔法”のようで、村中さんには、受刑者たちが絵本を読む声のなかにある「不安」や「しこり」のようなものが感じ取れるセンサーがあるかのようだった。

村中さんに、どうして絵本を読みあうだけで心の内がわかるのかと尋ねると、こんな答えが返ってきた。

「絵本は、言葉と絵と、それから絵で語らないとこ全部を含めて、この世界の愛し方を教えてくれてるんじゃないかな。
語ることも語らないことも含めて、あなたのこの世界の愛し方っていうのを認めてくれて、『それ、ここで確かめていいよ』って、ページを開いて待ってくれてるものだと思うんですよね。
この絵本と一緒にいるあなたの時間は本物の時間だし、その本物の時間で、本物の自分で生きた時間が、これからあなたを支えていくって、私は信じてるよって伝えてるだけなんですよね。」

絵本の物語の中に、自分を重ね合わせられる瞬間を見守り、そっと支えてあげる。
村中さんがひとりひとりに「どうして今、そういう読み方になったのかな?」と問いかけたり、「今の声は、こういう気持ちが伝わった」と伝えたりすることで、受刑者たちは自分の中の「しこり」に向き合い、プログラムの期間に静かに答えを見つけようとしていった。

2か月を経て迎えた録音の日、教室に入ってきた6人の顔は緊張でこわばっていた。
そして、村中さんや他の5人に見守られながら、受刑者たちが順番にマイクにむかう様子をカメラにおさめた。

そのうちのひとり、3児の母・ゆりさん(仮名)は、緊張のあまりおなか辺りの服をぎゅっと握りしめて、震える手をおさえながら、「わたしがあかちゃんだったとき」という絵本を読み切った。

その声はまるで、膝の上に幼い娘をのせて読み聞かせているような、慈愛にみちたものだった。最後、手で顔を覆い、“やり切った”という安堵の表情を見せたときには、私も目頭が熱くなった。
放送ではプライバシーを守るため、ゆりさんの顔にはモザイクをかけている。でもモザイクの下で、ゆりさんが目を赤くしながらほほ笑んだあの表情を、私は忘れられない。

出所後に立ちふさがる壁

プログラム中からずっと、私は受刑者たちと手紙で連絡を取り合った。
インタビュー時間が限られていて、ひとりひとりと信頼関係を結ぶためには文通がとても大切だった。
刑務所に来る前の生活のこと、親との関係、お子さんから来たCDへの反応のことなど、どの人も丁寧な字で手紙に書いてくださった。

なかでも、いつも何枚にもわたってお返事をくれた、ゆずさん(仮名)のことが印象に残っている。ゆずさんは取材の中で、こんな話をしてくれた。

「これから一番大事にしたいのは、助けを求めるっていうことですね。
人を頼るってこと。今までそれができていなかったから、すごい自分を苦しめてきたなと思って。
もちろん、なんでも人任せにするってことじゃなくて、できないことは人に頼れば2人だったらできるし、3人だったらもっと軽くなる。
それが生きるってことなんだなって思います。
『だるまちゃんとてんぐちゃん』を読んで、まわりに助けを求めるだるまちゃんの姿を見て、私が感じた自分に足りなかった部分だと思います。」

ゆずさんは刑務所に入ったときに妊娠中で、服役中に出産。生まれた子どもは一度も抱くことなく乳児院に送られた。
インタビューの時に「早く会いたい」と何度も言葉にしていて、出所後の暮らしをみすえて資格試験の勉強をいくつも頑張っていた。
いつか親子が一緒に暮らせるようになってほしいと、私も応援していた。

しばらくして仮釈放の日を迎え、ゆずさんから電話が入った。
今度児童相談所に行って、子どもを引き取るための面談をするとのことだった。

急な日程だったので、私ひとりがビデオカメラをもち、最寄り駅で待ち合わせて児童相談所まで向かうところを撮影した。
施設の中での撮影は禁止で、待合室で出てくるのを待つ。

1時間半くらいたってから、ゆずさんが暗い顔で戻ってきた。

「子どもを今すぐにでも引き取りたい気持ちでいたのですが、子どもも施設での生活に慣れてしまっているので、簡単には連れて帰れないことがわかりました。担当の方からは早くて半年から1年かかると…。現実は厳しいですね。社会に戻ってきて、もう手が届く距離にいるはずなのに会えない。私のことも、わかってもらえないんじゃないかと不安です。」

私にはどうすることもできず、ただ、「お辛いですね…」とうなずくだけだった。出所してきた母親と、子どもが再出発をはかる道のりは非常に険しいのだと知った。

その後、出所の日からずっと取材を続けた3児の母・ゆりさんの様子からも、社会に出た彼女たちがいかに厳しい現実に直面するのかを目の当たりにした。顔を見にいくと状況が一変していることがあり、ゆりさん自身も思い描いた生活ができない葛藤と常に闘っていた。

残された宿題

出所後の女性たちを取材するとき、私が特に気になったのはその子どもたちのことだった。

私自身、幼い子どもたちを置いて出張に出ていたので、わずか数日でさえも「今生の別れ」とばかりに玄関先で泣く子どもたちを見ては、「親と離れる」ことがどれくらいストレスなのか想像せずにはいられなかったからだ。

実際、出所してきたゆりさんに、3人の子どもたちは奪い合うように甘えたがった。
一番下の小学生の次女は幼稚園児に戻ったかのように、中学生の長女は、ゆりさんと最後に一緒に暮らしていた小学生だった頃に戻ったかのように、母親からの愛情を求めているようだった。

きっと子どもにはそのときの年齢に応じて親に求めている愛情があって、それを受けられなかった心の穴を、あとからでも埋めようするのかもしれないと思った。

「絆プログラム」で出会った女性たちには、自分が刑務所にいることを子どもに伝えている人もいれば、「病気で長期入院している」「遠いところに仕事に行っている」と、真実を伝えずにいる人もいた。

いずれにしても、子どもたちは、急に母親がいなくなり、親戚や施設などに預けられて、「刑期」と同じ期間、さまざまな我慢を強いられて生活している。衣食住が保障され、心の拠り所があることを信じたい気持ちでいっぱいだった。

一方のゆりさん自身は、「母親」としてどう子どもたちと接したらいいのか悩み苦しんでいた。子どもたちの幸せを考えると、自分の手で育てるべきかどうか葛藤し続けていた。
それでも、ゆりさんの長女がつぶやいた「ただ、隣にいてくれたら、それでいい」という言葉が、離れていた3年間の思いを凝縮していたような気がする。

今回の番組では、「絆プログラム」を軸にして受刑者自身の変化を見つめていったが、いつかちゃんと、親の服役中に子どもたちが抱えていた思いも深く知りたいと思っている。

山内沙紀
2013年入局。山口局を経て、報道局社会番組部「おはよう日本」へ。
外国人技能実習生の問題や、被災地、教育現場の課題などを取材。今年から「おはよう日本」のデジタル担当(ぜひTwitterをフォローしてもらえたらうれしいです。)

二人三脚で

まもなくETV特集の放送を迎える。
ひょんなきっかけから始まった取材は、足かけ3年半、長い道のりだった。
出産してからは、長編ドキュメンタリーの制作からは遠ざかってきた。
というか、5歳と2歳の子どもがいる身では、打席に立つことをあきらめてきた。

育児中の人なら誰しも、スケジュールが安定しない仕事との両立は悩むと思うが、まさに「長編のドキュメンタリー制作」というのは取材先の動向で予定が変わるし、遠方に何度も足を運ぶことにもなる。
いかに取材先の状況にあわせてロケに行けるかが勝負になるため、制作に携わる“育児中ディレクター”は、どうしても少ない。

そんななか今回のETV特集にこぎづけることができたのは、共に歩んできた広島局の吉川真由美ディレクターの存在が大きい。
本当に文字通り、二人三脚で取材を進めてきた。

吉川さんは私の1つ先輩だが、育休中に「“絆プログラム”について取材しようと思っているのですが、もしよければ一緒にやらせてもらえませんか?」と連絡をくれた人で、消えかけた私の中の火にさらに風を送ってくれた人だった。

吉川さんのつながりで、チームに加わってくれたカメラマンの浅見さん、音声の小倉さん。
みんなショートヘアの“アラサー女子”たちだったので、マスクをつけて現場に入ると似たようなフォルムの4人がカメラわきに腰を下ろした。
(30歳前後の女性だけのクルーなんてこれまでで初めてだったが、同世代の女子受刑者たちへ取材をしていて「とても話しやすかった」と言われたとき、安堵したことを覚えている。)

報道現場、番組制作の現場には、少しずつではあるが、育児や介護、病気など様々な事情を抱えながらも制作現場の仕事と両立しようと模索する人が増えてきている。そうした人たちが周りの人と力を合わせることで、諦めることなく取材を続け、多様な視点で社会に発信していく環境へと変わっていく必要があると感じる(し、変えられると信じている)。

刑務所で出会った女性たちが、「周りに助けを求めながら、ひとりで抱え込まずにやっていきたい」と語るのを聞きながら、私自身もなんだか背中を押されている気持ちで、きょうも現場に向かおうと思う。

▼これまで行ってきた取材は▼

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