記者として、デフテニス選手として叶えたい“ちょっと生きやすい社会”

みなさん、“デフテニス”を知っていますか?
デフテニスとは、聴覚障害のある人がプレーするテニスです。
世界大会では各国から代表選手が参加し、32人のトーナメント戦で戦います。

私は大学時代、2019年世界デフテニス選手権大会で日本の選手として初めて優勝しました。
手前みそながら、“デフテニスの女王”と呼ばれたこともあります。

それから5年。私は選手を続けつつ、NHKで記者をしています。
アスリートとしては、今年1月に全豪オープンに出場。
でも、記者としては、1年生。
日々忙しく取材に駆けずり回りながら、休みはテニスの練習にいそしむ日々です。

私が記者になったのは、デフテニスの選手として取材されたことがきっかけでした。
今回は、聴覚障害の当事者である私が、アスリートとして、記者として伝えたいこと・叶えたいことをつづっていきたいと思います。

テニスと難聴

はじめまして。記者の喜多です。
「首都圏ネットワーク」を担当しています。
都内のニュース取材に加え、関心のある聴覚障害の企画を制作する毎日を送っています。

私とテニスの出会いは小学3年生。公園で家族と野球をしていたときのこと。
バットを振ってポンポンとボールを飛ばす様子を見た父が「ボールを打つセンスがあるのでは」と感じたそう。
そこで、当時両親が習っていたテニススクールに私を連れて行ってくれました。

小学3年生で試合に出場
テニススクールの個人レッスン

最初はキッズクラスから始まり、数か月後には試合に出られるクラスに。
試合に出るようになってからは、週に4~5日、1日3時間練習していました。
学校が終わったら電車に乗り、駅から25分歩いてスクールへ。

しんどいときもありましたが、続けたおかげで中学2年生のときには全国大会に出場し、ダブルスでベスト16という結果を残すことができました。

一方、学校生活では、聴力検査の結果が悪く、難聴傾向が見られるという診断を受けていました。
日常生活でも、テニスの試合を母と観戦していたとき、左からの声かけに気づかなかったこともありました。
そのとき母は、頭に鉛がズシンと落ちてきたようなショックを受けたそうです。

そして小学3年生の8月、大学病院を受診。
診断結果は、「特発性両側性感音難聴」でした。

特発性両側性感音難聴:原因不明の難治性の感音難聴で、徐々に両耳の難聴が進行し、重度難聴やろうになるなどさまざまな経過をたどる。

聞こえなくなった私に、気づかなかった私

いま思い返すと、聞こえないせいだったのかと思うことがたくさんあります。

例えば、授業中のひそひそ話。みんなが楽しそうに耳元で話して笑っているのを、「あんなに小さな聞き取りにくい声で話して、なんで楽しいんだろう」と疑問に思っていました。

また、病院。
受付の人は一般的にマスクをつけていますが、私にとってはもごもごと話されているように感じ、聞き取れないことがありました。
首をかしげたり、聞き返したりするときつくなる口調。
「なんでこんなに不親切なんだろう」と悲しくなり、ひとりで病院に行くのが億劫おっくうでした。

テニスのときも。
生徒が縦1列に並び、数球交代でコーチと行う練習では、列の一番前になるのが嫌でした。
どんな動きをしなければいけないのか。何球で交代するのか。どこを狙わなければいけないのか。
コーチからの説明が聞こえづらく、みんなの練習を止めてしまうことがたびたびあったのです。
後ろに並んで待っている友達に「ちゃんと聞いてよ」と言われたこともあります。

次第に私は一番前になることを避けるようになりました。
「理解が遅い」と思われる自分、そして積極性がなくなっていく自分が苦しく、嫌でした。

見られたくなかった、補聴器

「特発性両側性感音難聴」という診断結果を受け、両親から補聴器を買ってもらいました。
でも、どうしても、補聴器をつけている姿を周りから見られたくありませんでした。

髪の毛をおろして耳を隠し、英語の授業など限られた時間や、聞こえづらい左耳だけ使うようにしていました。
つけたくなくて、ポケットに入れたまま洗濯してしまい、壊れてしまったこともあります。

耳を隠して過ごした学生時代

しかし、症状は少しずつ悪化していきました。
それを思い知らされたのは中学3年生のとき。
昼食の時間、机を向かい合わせにして6人でお弁当を食べていると、視線を感じました。

顔を上げると、私の方を気まずそうに見るみんなの目。
向かいに座っている子が後ろを指さすので振り返ると、先生がこれまた気まずそうに私を見ていました。
何度呼んでも私が振り返らないため、みんなの視線を浴びてしまったのです。

「もう補聴器なしでは無理だ。」
これからは補聴器が手放せないのだと悟った瞬間でした。

それ以降、トイレを流すときに聞こえる音が今までと違う、リコーダーの音がこれまでと違うと、聞こえなくなっていく現実を突きつけられるたびに、涙が止まりませんでした。

どうして自分は難聴になったのだろう。
どんどん聴力が悪くなっていく中、何を目標に生きていけばよいのか、生きていく価値も何もわからなくなっていきました。

子どものころに思い描いた教師という夢は、「生徒の話を聞き取れない教師なんて…」とあきらめました。
次に描いた「聴力などの検査をする技師の資格をとれる大学に入りたい」という夢も、かないませんでした。
難聴でも働くことのできる仕事を知らなかった私は、当時絶望のまっただ中にいました。
どうすれば苦しい人生を終えられるのか、ネットで検索したこともあります。

どうして中途半端に聞こえてしまうのか。
聞こえる世界にいると“聞こえない人”になり、聞こえない世界にいると“聞こえる人”になる。
いっそのこと、もとから聞こえなければよかったのに、と思ったこともあります。
どちらの世界にも居場所がなく、つらさと孤独感でいっぱいでした。

デフテニスとの出会い

そんな私を救ってくれたのがデフテニスです。

耳が聞こえないことを“デフ”ということを知り、「デフ テニス」と検索してみたところ、「デフテニス」というスポーツがあり、数日後に子ども向けのイベントが開かれることを知りました。

私はすぐに開催団体に連絡をとり、参加させてもらうことに。
初めて聴覚障害がある人に出会えることや、自分がこれまで続けてきたテニスを子どもに教えることができる楽しみでわくわくが止まりませんでした。
気持ちが高まる一方、自分が悩んでいることを両親に気づかれたくなかった私は、何も言わずにイベントへ向かいました。

そこで、子どもたちは手話をつかって表情豊かに会話し、楽しそうにテニスをしていました。
暗くなっていた私の心。そこに一筋の光が差したように感じました。

画像提供:NPOデフテニスジャパン

自分が味わった苦しみを、今後子どもたちに感じさせたくない。
子どもたちの笑顔を守りたいと強く思いました。

このとき私がテニスをしている様子を開催団体が撮影してくれていました。
それが、デフテニス日本代表の強化部長の目に留まり、「日本代表としての活動に興味はないか」と打診がきたのです。

デフテニスで学んだ“伝えること”の大切さ

デフテニス日本代表の練習は、およそ月に1回の強化合宿だけ。それ以外のふだんの練習は個人に任されていました。

日本代表として活動するには、相当の練習量を自分で確保する必要がありまました。そこで私が選んだのが、入学したばかりの大学のテニス部です。

コーチは、日本代表として活動することを「すばらしい目標だと思う」と背中を押してくれました。

一方で、聴覚障害のある私とどう関わればよいのか部員たちは戸惑いを感じているようでした。

状況が変わったのは、入部してからしばらくたったあと。
後輩がかけてくれたことばがきっかけでした。

「みゆさんが聞こえにくいのは分かるけど、私達が何をしたらいいのかはあまり分からない」

理解してくれる人はいないと思い込んでいた私。
でも、理解したいと思ってくれていた人はこれまでもいたのかもしれない。

理解してほしいと思いながらも、伝えてこなかった自分に気づかされたひと言でした。
このときから、難聴にも種類があること、マスクを外すと聞き取りやすいことなど自身について周りに伝えるようになりました。

後輩は、「みゆさん、手話を覚えたので見てください」といって手話を見せてくれるように。
サーブ練習の時間が、盛り上がってしまい手話勉強会になったこともあります。
何も言わなくても、私が聞き取りやすいようにみんなさっとマスクを外して会話してくれるようになりました。

さらに、“伝えること”の大切さを実感したできごとがあります。
デフテニスを知るきっかけになった子ども向けイベントです。
当時、部の練習に加え、イベントにもよく参加し、子どもたちにテニスを教えていました。

画像提供:NPOデフテニスジャパン

ろうの女の子とコート上で話していたときのこと。
女の子は手話で一生懸命話してくれますが、私は手話がわからず何度も「もう1回いい?」と尋ねます。
何度繰り返してもわからず、「声で話してもらうことってできる?」と聞いてみたところ、
「声でお話するのは苦手だから、手話でお話ししたい」と正直に伝えてくれました。

結果、ノートで筆談することになりましたが、
6歳と小さいながらに相手にはっきりと伝えることのできるその姿勢に、大きな学びをもらいました。

世界デフテニス選手権大会で優勝

周りの理解や支えもあり、私は練習に打ち込み、選手として実績を積んでいきました。
そして迎えた、2019年の世界選手権。
決勝の相手は、前年に団体戦で負けた、手足の長いドイツの選手でした。

試合中、何度も気持ちが折れそうになったとき、思い浮かべたのは子どもたちの笑顔でした。
自分の背中を押してくれた子どもの笑顔を絶やさないよう、少しでも活躍して希望や勇気を届けたい。

「あの笑顔のために頑張ろう」。
そう思うと、ゾーンに入った感覚がありました。
そして、日本人として初めての優勝を果たすことができたのです。

2019年世界デフテニス選手権大会の表彰式にて

ようやく自分に自信を持てるようになり、補聴器のために隠していた耳を出せるようになりました。
「聴覚障害を受け入れて生きていける。」
そう感じていました。

ところが、そう思ったのもつかの間。
簡単にはいきませんでした。

大学の英語の授業でのこと。教授から出席番号順に座るよう指示がありました。
私の席は後ろから2番目。そこで、「席を前方に変えてほしい」と伝えました。
補聴器をつけていても、英語と日本が混ざるとさすがに聞き取ることが難しいからです。
ところが、教授から返ってきたのは「すでに決まっているから難しい」という返事。

世界選手権で優勝したことをきっと教授は知っていてくれるだろう、知っていてほしいと、改めて難聴があると伝えず席の変更をお願いした私。完全にうぬぼれでした。
難聴であることも、デフテニスの選手であることも知られていなかったのです。

「どんなに頑張っても、気づかれないのだ。」とショックを受けました。

実績を出しても、知られていない。気づかれていない。
であれば、障害がある人たちの埋もれた声は、私が思っている以上にもっともっとあるのだろうと感じた瞬間でした。

マスゴミだと思っていたけれど…

そんなときです。
新聞社の日本パラスポーツ賞の優秀賞を受賞することになったのは。
この賞には、国内外の障害者スポーツ大会で優れた成績を残した選手やチームが表彰されました。

日本パラスポーツ賞で優秀賞を受賞

受賞したことで、その新聞社の取材を受けることになりました。

マスコミを「マスゴミ」とよぶSNSも目にしたことがあり、そんなものだと思い込んでいた私でしたが、
記者の物腰の柔らかさ、できあがった記事の内容に、印象ががらりとかわりました。
特に記事の最後の1行が、忘れられません。

「喜多は自身の活躍で、同じ境遇の人に勇気を届けられると信じている」

当時感じていた「知ってほしい」という私の思いを丁寧にくみ取り、広く伝えてくれたことがとてもうれしかったのです。
また、「記事を読んで私のことを知り、勇気をもらった」という当事者の方たちからの反響もあり、伝えることの影響力の大きさを初めて実感しました。

記者になれば、知られていない、気づかれていない“埋もれた声”を形にして、広く届けることができるかもしれない
「伝える仕事を自分もやってみたい。」私はそう思うようになっていました。

聞こえない私が、聞く仕事をするワケ

ある日、家のテレビの前でゴロゴロしながら「聞こえなくても伝える仕事できないかなぁ」とつぶやいたら、父から答えが返ってきました。
「いるじゃん、難聴でリポーターしている人」

「え、そんな人いるの?」と調べてみると、東京パラリンピックでNHKのリポーターを務め、現在はNHKアナウンサーの後藤佑季さんがヒットしました。

もしかしたら、自分も伝える仕事ができるかもしれない。
さらにNHKについて調べてみると、ディレクターにも難聴の職員がいることがわかりました。
勇気をもらった私は、NHKの就職試験を受けることに。その後内定が決まりました。

しかし、NHKに入るまで1か月となったころ、急に「本当に記者の仕事をしていいのか」と不安が襲ってきました。
あんなに伝える仕事ができることに希望を感じていたのに、聞こえない自分が聞く仕事をして大丈夫なのだろうか。
あまり眠れない日が1か月続きました。 

それでもいま、私は記者として働いています。
周りの支え、そしてさまざまな技術に助けられながら。

取材にいくときに駆使するのは、
音声を文字にしてくれる字おこしアプリと補聴器に直接音を届けてくれる小型マイク。

補聴器と、小型マイク

記者として最初の企画は、聴覚障害がある両親から生まれた聞こえる子ども“コーダ”について。
「聴覚障害の理解を広めたい」という決意でこの仕事を選んだこと、上司から「伝えたいという気持ちを大切にしなさい」と教えられたばかりであったことから、このテーマを選びました。

コーダは、生まれたときから“聞こえない世界”と“聞こえる世界”両方に身を置きます。
2つの世界の狭間はざまにいる自分とどこか近いものを感じました。
聴覚障害におけるさまざまな壁を、聞こえない人だけでなくて「聞こえる」人も、そして「こども」も感じている。
そのことを伝えたいと思ったのです。

企画は、ウェブ記事にもなっています。
よろしければご覧ください。

再び挑戦した、グランドスラム

そしてデフテニスの選手としては、去年の10月末、グランドスラムの一つである全豪オープンに招待され、出場の意思を大会に伝えました。

大学時代より練習時間は格段に減りましたが、大学のテニス部時代の先輩にコーチとしてついてもらったり同期にヒッティングパートナーになってもらったりして、短時間ながら密度の高い練習を重ねてきました。

「両立をするのはしんどいと、出場を決めたときに分かっていたはず。
今の自分にできることを精いっぱいしないと」
という先輩のことばを何度も自身で繰り返しながら。

そして1月に行われた全豪オープン。
結果は、シングルスで3位、ダブルスで優勝でした。

大学の先輩兼コーチと共に

みんなが生きやすい世界を目指して

私自身周りから見えにくい障害があるからか、
人は誰しも、負の側面があり、周りには見えない傷などを抱えているのではないかと思っています。

それを無意識に傷つけないよう、想像できる人でありたい。
でも、知らないと想像を膨らませることもできません。

「こんな人もいるのだ」と、知ってもらうことから周りの想像力につながり、
社会の行動につながっていくのだと思います。

私がかつて、テニス部の後輩や、イベントの子ども、取材を受けた記者からそう教わったように。

小さなことでも伝え、“知っている人”をどんどん増やし、誰もが生きやすいと思う社会に貢献したい。

「おかげでなんか生きやすくなったかもしれない」
そんな声が聞けるような仕事ができれば本望です。

2025年11月に東京で初めて開催されるデフリンピックは、100回目の記念すべき大会です。
聴覚障害のことを少しでも知ってもらえるよう、この機会を記者として伝えていきたい。
また、かなうなら、選手としても。

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