「ドキュメンタリーとは、目に見えないものを撮ること」。サグラダ・ファミリアの彫刻家を撮り続けてきたカメラマンの話

「サグラダ・ファミリアの主任彫刻家(当時)の外尾悦郎さんを撮ってくれないか?」

2011年6月、私は新人のころからお世話になっている先輩に呼び出された喫茶店でそう言われ、心が躍ったのを覚えています。
子供のころに見たコーヒーのCMが記憶に残っていたからです。
相手が有名人故の取材の難しさは想像しましたが、持ち前の好奇心と、勢い重視の姿勢とが相まって「私で良ければ全力で向き合います」と答えました。

同時になぜ先輩は私にその大役を任せようと思ってくれたのか疑問に思いました。本当はその先輩こそ外尾さんを撮りたいと思っていたからです。
しかしその先輩はその直後に現場を離れ、カメラマンを統括する管理職となりました。
本当は担当したかった大切な仕事を私に任せてくれた信頼を感じ、気持ちが引き締まりました。

そこから始まるロケ現場で学んだのは“撮らずに撮る”というドキュメンタリーロケの神髄でした。

2011年9月のサグラダ・ファミリア

ロケの現場に魅了されて

当時の私はカメラマン歴10年少々でしたが、多種多様な現場経験をさせてもらっていました。
立山の山小屋に1か月以上寝泊りしたり、核開発の闇市場を巡って地球を1周回ったり、サハラ砂漠でテント生活を送ったり、アリューシャン列島で潜水取材をするため2か月以上船旅をしたりするなど、事前取材が難しい一期一会の現場を撮ってきました。

2010年6月アラスカ 1000万羽の海鳥と500頭の鯨の大集結を取材
2011年1月スーダン 古代エジプトを支配したブラックファラオを取材

ディレクターの要求どおりに撮影するカメラオペレーターではなく、ディレクターと共に構成を考え、自分の判断で撮影し「今日は◯が撮れたから、明日は△を狙おう」というようなロケクルーの一体感が求められる緊張感のあるロケの魅力を知り始めた時期でした。

取材クルーの結成

「外尾さんを撮る」決意を先輩にした数日後、今度は「ディレクターを紹介する」と言われ再び喫茶店に向かいました。

そこで出会ったのが、星野真澄D(ディレクター)でした。星野DはプロジェクトXを立ち上げ当初から担当し、局内でも有名なディレクターでした。

にこにこしながら1時間以上も番組の企画について熱弁してくださった…が、端的に覚えているのは、次の4つでした。

・構成については何も決まっていない
・何が撮れるのかも分からない
・そもそも取材の許諾も得ていない
・でもとにかく外尾さんを知りたい

ドキュメンタリーとは往々にして不確定要素が多いものですが、ここまで何も決まっていないのは相当むちゃな話です。しかしそうしたむちゃな現場のほうが「おもしろい」という予感もあります。

多くのロケはディレクターが事前取材に基づいて「◯◯を伝えるために何が撮れるのか」を見極めて、事前に構成を書きます。そのほうが効率的だからです。

しかしドキュメンタリーの現場では想定外のことが必ず発生します。
そうした「想定外」を瞬時に受け止め、番組構成に落とし込んでいけるかを判断しながら本質を追い求めるのがドキュメンタリストの真骨頂だからです。

船乗りの称号である「クルー」の確立

こうしたドキュメンタリー取材の場合、機動力をあげるために照明と音声(Light & Audio)業務を一人で兼務することが多くなっています。それだけ高い技術と経験を求められます。

そこで星野Dとは何度もクルーとして番組を作ってこられた小関 孝LAを紹介してくれました。口数少ない職人気質ですが、これまでの担当番組を見れば音声マンとしての腕がピカイチなのが分かります。

星野D(左)とは盟友である小関LA(右)
撮影中の小関LA

TVの取材現場を見たことがある方はイメージできるかと思いますが、音声スタッフはブームという棒状の先にマイクを付けて収音します。このマイクは高性能で、雑踏の中でも狙った音源を収音することができます。しかし逆にいえばマイクが向けられていない音は収音することができません。

音源が一つであれば単純ですが、複数人での会話であれば、どこにマイクを向けるのかの判断と正確性が求められます。
会話であれば話し始めから収音されていなければ内容を理解できません。
次に誰が話し始めるのかを予測し取捨選択をしたうえで正確にマイクを向けるのです。まさに職人技です。

もともとは私に任せてくれた先輩カメラマンと星野D、そして小関LAでこの取材に挑もうと思っていたのだと知りました。
小関さんとクルーになるのは初めてでしたが、芯の通った職人だったので不安はありませんでした。

ところで、なぜチームではなくクルーという船乗りの称号を使うのかご存じでしょうか。

今回のような大きな企画の場合ロケ期間は数か月に及びます。
一旦取材が始まれば何か月も寝食を共にしながら取材を行います。
途中交代はよほどのことがなければあり得ません。
異国での長期取材となれば、家族に何かがあってもすぐには帰れません。
それだけの覚悟をもって挑むことから一旦出港したら途中下船はできない運命共同体の船員と同様に「クルー」といわれているのです。
このようにして我々3人が一つのクルーとして船出しました。

ショボウ・チュウボウ・ケイボウは撮らせない

2011年9月、南欧気候で心地よい町バルセロナに降り立ちました。
我々は早速グエル公園、カサ・ミラ、コロニア・グエルなど、アントニ・ガウディの建築物を体感し、感動した後にサグラダ・ファミリアの中にある外尾さんの工房を伺いました。

外尾さんは笑顔で迎えてはくれましたが、第一声は「君たち本当に来たの?」でした。我々は、見てきたガウディの建築物を興奮気味に話しながら、取材について話をしようとしました。

すると外尾さんは「まず初めに言っておきますが、ショボウ・チュウボウ・ケイボウは撮らせません」とハッキリ言われました。しかし、その言葉の意味を知らなかったので聞き返すと、「漢字は定かではないがおおよそ次のような意味だ」と言われました。

書房…仕事場を含む作業風景
厨房…食事などプライベート
閨房…漢字は男女の関係を指すが、外尾さんは契約などより繊細でプライベートな話を指す

補足をすると、書房が指す「仕事場」は、サグラダ・ファミリア側が取材許可を出さなければ、教会内での撮影は難しいということです。
厨房…プライベートはつまり家族の中にカメラを入れること、そして閨房は夫婦の話というよりも契約など、より繊細でパーソナルな話だと理解しました。

すなわち「何も撮れない」ということです。

厨房や閨房はともかくとして書房は撮れないと話にならない…と不安に思った瞬間、星野Dが明るく「分かりました。まぁでもとにかくバルセロナまで来てしまったので、あとはそのつど具体的に相談させてください」と言い放ちました。

外尾さんは「それならば…」と持っていたバルセロナの地酒を出してきてくださり、乾杯しました。
私はいきなり先制パンチを食らった印象で不安はありました。
しかし星野Dのいう通り、何はともあれここまで来てしまったのだから、徐々に迫っていこうと思うことにしました。

バルセロナの町に溶け込んでいるサグラダ・ファミリア

その夜、クルーで話し合いました。外尾さんは厳しいことを言われているが、我々を試しているのではないか…何しろ、7月に外尾さんが日本に一時帰国した際にご挨拶しただけの我々が「これから約半年密着させてください」と言っているのです。さまざまな取材を受けてきた外尾さんであっても、相当変わった取材だと感じたと思います。

それともう一つ我々が想像したのは、あの厳しい条件は外尾さんの優しさではないかということです。「撮れる」と思っていたものが「撮れない」となるのは大変ですし、スペインのお国柄、許可が二転三転するのは当たり前です。

スペインの宝を創っている日本人を、日本のTV局が取材に来ているのですからなおさらです。だから最初に我々の覚悟や決意を試しているのではないかと想像したのです。

ほとんど何も撮れないことを番組のプロデューサーに伝えれば、取材内容を変更して帰国するかもしれない。
それならばそれまでの取材だったということです。
そこで我々は「しばらく撮影はしない」と決めました。
表面的な取材ではなく、外尾さんの奥底に迫る取材をするために、ふだんとは違う決意をしました。

我々が外尾さんを知りたいのと同じくらいに、外尾さんも我々という「人間をはかっている」のだと思います。これは特別なことではありません。

取材相手が我々を受け入れるかどうかは、シンプルです。
相手にとって取材を受けることが「宣伝」や「利益」などメリットがあれば、「我慢」してでも付き合ってくれるかもしれません。

しかし、ドキュメンタリーの場合、往々にして我々は相手にとって負担となります。邪魔者になることもあります。
だからこちらも己の姿を偽らず、格好つけずに生身で向き合うことで、「この人たちなら自分の空間に居てもいい」と受け入れてもらえるかどうかが問われているのです。

撮らないロケ

ひとまず、翌日から外尾さんに同行する許可だけは得られたので、ひたすら密着することにしました。

当時外尾さんはサグラダ・ファミリアの上部に設置される石柱(植物の芽)の制作に取り組んでいました。長さ4メートル、重さ2トン以上にもなる石柱をハンマーとノミで彫り進めるのです。

現場はバルセロナ市内から車で小一時間のトルデラという田舎町。
石切場から採りだされた大小さまざまな石が集積された広大な工場の片隅を借りて、一人黙々と彫っていました。

8時半頃から16時半まで休憩を挟んで黙々と石に向き合っています。
ほとんど誰とも話さずに、「カーン カーン」と単調に繰り返される石を彫る音を心地よく聞いていました。

サグラダ・ファミリアに設置する植物の芽(ラベンダーは外尾さんの発案)

毎日、朝暗いうちに宿を出発し、砂ぼこりをかぶりながらひたすら外尾さんのノミの音を聞く。昼食は近くの定食屋に行き、再び工場に戻りました。
初日は何も言わなかった外尾さんですが、3日目を過ぎたころにポツリと「君たち何も撮らないけど大丈夫?」と聞いてきました。

それもそのはずです。外尾さんを取材するために遠路はるばる日本から来ているのに、何も撮らずに毎日帰っていくのです。取材を受ける側の外尾さんですら心配になったのでしょう。

しかし我々は我慢していました。
まだ外尾さんの手のひらに乗せられている状態だと感じていたからです。
オーラに飲まれているともいえます。この関係性で撮り始めたら、対等な関係で取材を進めることができないと思ったのです。

なぜそう思ったのか。

うまく表現できるか不安ですが、見るもの聞くものが初めての経験であったため、すべてがおもしろく見えました。
この「すべてがおもしろく見える」というのが引っかかるのです。
この状態で撮り始めると、自分の中で現場を取捨選択できなくなる可能性があります。

我々カメラマンは動画を撮るため、「時間」を記録することになります。
一瞬のピークを狙いすます「写真」も大変ですが、我々は「ピークとなる前の予兆」から撮影を開始しようと狙っています。もちろん予測が外れることもあります。

「おもしろそう…」と瞬間的に判断して撮り始めるが、「あ、、違ったな」と思ったら止めるのです。
しかし「すべてがおもしろく見える」状態で撮り始めたら作業が終わるまで止められなくなります。
それは定点カメラの記録映像のようなもので、カメラマンが現場を切り取っていることにはなりません。深く理解するまでは撮影しないことを続けました。

なぜ外尾さんを撮りたいのか

外尾さんは1978年に彫刻を学んでいた京都市立芸術大学の卒業旅行で単身ヨーロッパを回っていました。

冬のフランスからバルセロナに降り立ち、太陽とラテンの香りに誘われてサグラダ・ファミリアに出会います。建築中のサグラダ・ファミリアはその場で大きな石を直接彫る石工がたくさんいたといいます。その様子に心を奪われた外尾さんは「俺に石を彫らしてくれ」と言って飛び込んだ人です。

以来30年以上、言葉も文化も異なる地で、石工という職人の世界で生き残ってきたのです。それは想像を超える試練や葛藤があったと思います。
何しろスペインの宝といえるサグラダ・ファミリアの建築現場で異国人が生き残っていくのです。スペイン人のほかの石工と同じ技術であれば、わざわざ日本人を雇う必要はありません。

「いつでもスタンバイOK」として当然のように勝ち進んでいかなければならないと外尾さんは言っています。妬みやそねみも生まれたと思います。ハッタリをかます必要もあったといいます。

しかしくじけることなく生き抜いていく力強い精神の根幹に何があるのかを知りたいと思いました。

効率化を求める現代社会において、コミュニケーションは昔に比べて希薄になりがちです。必要以上にハラスメントにおびえて、意見を言いにくい世の中だからこそ、切り開いていく姿は今を生きる我々の心に響くと思い、撮って伝えたいと思ったのです。

そうしたことがクルーの中で確信として腹に落ちていない状況で撮っても、表面的な上澄みしかとらえられないと考えていたのです。

“証拠カット”はいらない

1週間が過ぎた週末に外尾さんがホームパーティーに行くことが分かりました。聞けばガウディを知るレジェンドともいえる方々が集まるパーティーです。そこに来てもいいと言われました。我々は感謝し、当日を迎えます。

しかしそれでもカメラは持っていきませんでした。
正確にはロケ車には積みましたが、家には持ち込まず、手土産だけを持ってパーティーに参加したのです。

外尾さんは我々を日本から来たメディアで、外尾さんやガウディを取材しにきたと紹介してくださり、受け入れてもらえました。

おいしい料理とCAVAと呼ばれるスパークリングワインを飲みながら、ガウディの話を聞いていました。しかし取材はしても撮影はしません。
そのうち外尾さんが近づいてきて「君たち本当に撮らないの? こんなメンバーは二度と集まらないよ」と言います。確かにガウディの話を直接聞けるチャンスはこの場しかないかもしれません。

しかし星野さんはパエリアを食べながら「我々はまだ外尾さんのこともガウディのこともよく分かっていません。ましてや、ここに集まっている方々のことを知らない中で撮っても表面的な“証拠カット”になるだけです。
だから今日は撮りたいけれど撮りません」
と言ったのです。

普通ならば「とりあえず撮り、編集段階で判断すれば良い」となります。
実際そうだったかもしれません。
が、我々は撮らないという判断をしました。

仕事場は撮れないと言いながら、トルデラの作業場に連れていってくれたのは、「ここならサグラダ・ファミリアの教会内ではないので自由に撮れる」と思って誘ってくれたのだと思います。ホームパーティーに誘ってくれたのも、我々が喜んで飛びつき、ある程度シーンが撮れれば満足して帰るのではないかと思ったのかもしれません。しかし我々は一向に撮影しない。毎日ひたすら外尾さんと共にいて、その現場を満喫しているのです。外尾さんのほうからも我々に対して一段上の興味を抱いてくれるようになったのです。

いざ、撮影!しかし前日にハプニングが…

ホームパーティーを終え、外尾さんに密着して1週間が過ぎたある日、宿に戻る車の中で誰からともなく「明日から撮ろうか」という話になりました。
日々のルーティンも分かったし、外尾さんが今向き合っている石柱の意味も分かってきました。

しかし一番の理由は外尾さんが我々を意識しなくなってきたと感じたからです。

取材者はよく相手に「我々はいないものと思って自然に振る舞ってください」とか言いますが、ハッキリ言ってそんなことはあり得ません。
相手の生活の中に入り込んでレンズを向けるのです。
邪魔だと感じるほど、存在感があります。

だから、存在していても気にならない存在になることが大切なのです。
その時が来たとクルーで感じたので、いよいよ明日から撮ろうということになったのです。

すると前日のバルセロナの夕景を撮っておこうという話になり、市内を見下ろせる山へと向かいました。街中に浮かぶ大きなサグラダ・ファミリアを撮るために、夕日の角度を考えながらポジションを探ってそれぞれが野山を歩き回りました。

しかし星野さんがなかなか戻ってきません。
電話を鳴らしても出ません。
しばらく待っていたら、山道のかなたから足を引きずりながら歩いてきました。急いで駆けつけると左足の膝が大きく腫れています。

聞けば足元に引っ掛かり、崖から落ちそうなところをオリーブの木にぶつかって助かったといいます。現場を見ましたが、九十九つづら折りの山道の崖は10メートルほどの高さがあり、オリーブの木に当たって止まらなければ大けがでは済まなかったかもしれません。

すぐに救急病院へ向かいましたが、その間も目に見えて膝は膨れ上がってきます。痛そうに処置室に入っていく星野Dが、待合室に戻ってきた時には車椅子に乗せられていました。

小関LAと「これは星野D緊急帰国もあり得るかな?」と心配したことを覚えています。しかし、幸い足を固定して冷やしながら安静にすることで大丈夫だと言われました。車椅子ではなく松葉づえで歩けるということで首の皮一枚つながったと感じました。

処置室から出てきた星野D
星野D負傷直前、夕暮れのサグラダ・ファミリアを撮影

しかしです、明日の撮影開始をどうしよう…。
私はカットのイメージを具体的に決めていました。

砂ぼこりが舞う工場にカーンカーンと響き渡る音を頼りに、遠くから近づいていき、彫刻家であり石工である外尾さんを紹介したいのです。

ようやく自然に存在が認められたのに、星野Dが松葉づえをついて近づいていけば外尾さんの第一声は「星野くんどうしたの?」となってしまいます。
事前に説明したうえで一旦離れて合図とともに撮影を開始するということはあり得ません。

それこそ我々の取材姿勢が予定調和の表面的なものになってしまうからです。星野Dは明日のファーストカットの際は「松葉づえを使わず、カメラの陰に隠れながらなんとかしのぐ」と覚悟を決めました。

翌日、実際に外尾さんが石を彫ることに集中し始めたころを見計らって遠目から撮影を開始しました。撮影を始めれば後戻りはできません。
私が外尾さんを撮るファーストカットはこの一回だけなのです。
人生の中で奇跡的な導きで外尾さんと出会い、その方を撮影するファーストカットのチャンスは一回しかないのです。

星野Dが途中で止まろうと、転ぼうと、撮影を止めることなく撮り切る覚悟を決めて進み出しました。結果的に番組には使われませんでしたが納得のいくものでした。

そんなふうに関係を築きながらようやく撮影を始めました。取材期間が長めに与えられたこともありますが、その分をふだんとは異なる覚悟と決意で外尾さんや、現場に向き合えたのです。

取材の歯車が動き出したら一気に回り出します。外尾さん自身がサグラダ・ファミリアでどのように存在を示してきたのか。妬みや差別がある中で、職人仲間と関係を深めてきたのか。そしてガウディがつくろうとしていたサグラダ・ファミリアについてどのように挑んでいくのかを、記録していきました。

サグラダ・ファミリアの建築委員会にも何度も直接交渉することで、サグラダ・ファミリアでの撮影も許可されるようになりました。書房を撮ることができたのです。

チュウボウに迫りたい

ただ私はどうしても撮りたいものがありました。
それは厨房です。
家族状況を暴きたいわけではありません。
外尾さんのオフの表情を撮りたいと思っていました。
工場やサグラダ・ファミリア内での撮影ができても、やはりそこは仕事場でありオンの姿です。
外尾さんの姿勢や生きざまを知れば知るほど、プライベート空間での姿が見たくなったのです。撮りたいというよりも知りたくなったのです。

そこが見えなければ、「外尾悦郎」という人物に迫るというよりも、偉業を紹介する程度にしか届かないと思っていました。
しかしこれはなかなかハードルが高いです。
何しろ外尾さんの一存で自宅での撮影ができるわけではありません。
ご家族に我々のことを受け入れてもらえなければなりません。
その突破口が必要でした。

そんな時に持ち出したのは、日本で購入した秘蔵の日本酒です。
スペインではなかなか手に入らない日本酒を瓶で二升持ってきていました。
そのほかささやかながらご家族分に日本文化を感じるものを持参していました。それをご家族に直接お渡しできないかと相談したところ、休日のご自宅に呼ばれ、夕食を共にすることになりました。

ご家族からすれば、当然「この人たちは一体何者なんだ?」というところです。

もちろん、多くの取材相手と向き合ってきた我々もその点は心得ています。
相手のことは知りたい、撮りたいと言っているのに、自分自身のことを隠していたら信頼されません。
こちらが格好つけても見抜かれるのが関の山です。
だから常にこちらも自分のことは隠さない。
それが取材させていただくうえでの最低限の礼儀だと思っていました。
(外尾さんの言葉を借りれば、異国では常に「お前は一体何者なんだ?」という目にさらされると言います。そんな中では堂々と自分自身をさらし、どんな人間なのかを見てもらえば良いとふるまってきたそうです)

そして、私たちクルーはご家族の前に身をさらしながら、関係を築き、気がつけば持参した酒の半分を空けてしまいました。
もちろんその日は全く撮影をしていません。

クルー全員で撮ったシーン

それから2か月後の2011年12月、外尾さんのご自宅に二度目の招待を受けた時にチュウボウを撮らせてもらえる機会が訪れました。
その日も撮影するというよりも、休日を共に過ごすようなイメージで、カメラは部屋の隅に置いておきました。

食事を済ませて談笑している時に、地下室に案内されました。
そこには33年前に一人旅をしていた時に使っていたザックや、思い出の品々が30畳近くある部屋に詰まっていました。
いわば外尾さんにとってのスペインでの足跡が詰まっている空間でした。

瞬時に「撮りたい」と感じ、小関LAに目で合図を送ります。
そして私は足早にカメラを取りに階段を上がりました。
しかし小関LAは上がってきません。
外尾さんが我々3人に対して信頼して心を開いてくれた空気感を崩さないように、地下の部屋に星野Dと共に残り、撮影は私だけに任せたのです。

静かな地下室だったので、カメラに付属しているマイクで録れるだろうという判断もありますが、何よりもその場の「空気」を大切にしたのです。

そしてこの時撮影したサンドバックをたたく外尾さんの姿は、番組のファーストカットとなりました。

特別な撮影はしていません。
ただその空間に居させてもらえて、レンズを向けた。
ただそれだけです。
しかしそのカットにこそ、我々の取材クルーの姿勢や視線がすべて凝縮されていたと感じました。まさにクルー全員で撮れたカットでした。

トルデラの誓い

2012年1月。
外尾さんは生誕の門のデザインについて、カタルーニャ州の大臣の承認を控えていました。
すでにコンペは勝ち抜いていましたが、世界遺産である生誕の門への追加工事となるため、ユネスコに申請する後押しをしてもらう必要がありました。
しかしそこはスペインです。
日程も含めてなかなか思うように決まりません。
我々も番組の終わりと考えていたので、撮れないと帰国できない苦しい状況でした。

いつものようにトルデラの工場の片隅で植物の芽を彫っていた外尾さんに、今後の取材方針を説明しようとしました。
しかし外尾さんはその説明を静かに遮り「もう何も言わなくていい。君たちに任せる。撮りたいものは撮ればいい」と言ってくださいました。

そしてふと手を止めて、まさかこんなに濃密な関係になるとは思っていなかった。我々は人生を共に送る関係になった。君たちは本当に変わった取材者だねと言って笑ってくれたのです。

その時に人生を共に送る関係ということから、いついかなる時でも相手のことを大切にする誓いとして「トルデラの誓い」を交わしたのです。

サグラダ・ファミリア教会の中にかつてあった外尾さんの工房での集合写真(筆者撮影)

続いていく取材と関係性

9月、12月、1月と計3回バルセロナを訪れて取材を重ね、2012年3月にハイビジョン特集「いつでもスタンバイOK」として放送することができました。
しかしそれで終わるわけではありません。
外尾さんが日本に帰国する際には「トルデラの誓い」として集まり、近況を共有しています。インタビューをお願いすることもありました。
番組を取材するために出会った関係は、変化しながら続いていくのです。

ドキュメンタリーを撮るということは、事象の奥にある、目に見えないものを撮ることだと思っています。
そのためにクルーがそれぞれの立ち位置から現場を見つめ、そして同じ方向を見つめていくのが大切です。
外尾さんがガウディを目指し、見つめるのではなく、ガウディが見ていた方向と同じ方向を見るとおっしゃっていたのと同じかもしれません。

全てはここから…2011年7月外尾さんの母校にある作品の前で(後列は、外尾さん。前列左から小関LA、星野D、筆者)

2011年7月に初めて外尾さんにお会いしてから間もなく12年が過ぎます。
その間にも何度も現地を訪れ取材をさせていただきました。
2019年にはNHKスペシャル「サグラダ・ファミリア 天才ガウディの謎に挑む」として放送も重ねています。
取材者と取材対象者という関係でもありますが、その底には互いの信頼関係の礎があると感じています。
そんな関係を築かせてくれた外尾さんにとても感謝しています。

カメラマン 上泉美雄
1998年入局。ヒューマンドキュメンタリーを中心にロケの撮影を担当。ほかにも、潜水カメラマンとして水中映像も担う。現在は、ロケ撮影の統括責任者。主な作品は、NHKスペシャル「復興」「核の闇市場」「激流中国」「クジラ対シャチ」「異端の王」「風の電話」「渡辺謙アメリカを行く」、ETV特集「カキと森と長靴と」「実録2.26事件」など。

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