これまでの街歩き

ボローニャ/ イタリア

2006年5月30日(火) 初回放送

語り:松田洋治

撮影時期:2006年4月

世界地図

地図

場所

イタリアの北部、エミリア・ロマーニャ州の州都ボローニャ。
人口はおよそ40万人。紀元前より交易の中心都市として発展してきたボローニャは、現在も北イタリアを代表する食や文化、芸術の行き交う活気あふれる街です。
ヨーロッパ最古のボローニャ大学があり、人口の約5人に1人がボローニャ大学の学生と言われています。そのため街は、学生の活気であふれ、自由闊達(かったつ)な雰囲気が街全体を覆っています。
もともとボローニャは12世紀、統治を受けていた神聖ローマ皇帝より、自由を獲得した自治独立の歴史があります。その自由と独立を重んじる精神は、今にも受け継がれています。だから、ボローニャ市民といえば、学生だけでなく、老若男女、すべての人たちが自由でエネルギッシュ。街全体がひとつの大学のようだと言われるほどです。

Information

ボローニャ大学

1088年に設立されたボローニャ大学は、ヨーロッパ最古の大学といわれ、ダンテ、ガリレオ・ガリレイ、コペルニクスが学んだ学校として世界的に名が知られています。学生はヨーロッパ全土から集まってきたため、設立当初から国際色豊かな大学でした。
はじめは校舎などはなく、街中の至る所で講義が行われていました。もともと商業取引のための契約書を作成するために、法律家が市民に教えたのが始まりと言われています。教授は学生が選出し、その教授のもとに集まって、街中で授業が進められたそうです。
14世紀になると大学の整備が進み、特に法学部と医学部が大学の中心をなすようになりました。大学の本部が置かれたアルキジンナジオと呼ばれる建物には、現在も法学部の教室と世界で最初に人体解剖の授業が行われた医学部の教室が残っています。現在は23学部。総合大学として今も世界中から学生が集まり、自由な気風に富んだ大学として、今もボローニャ市民の誇りとなっています。

ポルティコと塔

ボローニャと言えば、ポルティコ。
もともとポルティコが作られたのは、13世紀頃。ボローニャ大学で学ぼうとする学生が街にたくさん溢れたのがきっかけでした。学生たちのために下宿を営む家主が二階の部屋を通りに張り出して増築し、その部屋を柱で支えのが、ポルティコの発祥となったのです。
他のイタリアの都市では、ポルティコが時代とともに取り除かれる中で、ボローニャだけは、その設置を義務付けてまで奨励しました。使い勝手の良さが保存の大きな理由でしたが、裕福な貴族階級の人々が自分たちの屋敷に豪華なポルティコを設置することがステイタスとなったのも事実です。
現在は、旧市街のおよそ80%の建物にポルティコが存在し、市内のポルティコの総延長は38kmあまりにも及びます。木造から石造り、レンガ造りのものまで、実に様々なポルティコが連なり、その美しさを競っています。
そしてもう一つ、貴族の富の象徴として建設されたものに、高い塔があります。ポルティコの隆盛と時を同じくして、ボローニャでは、街中にレンガや石造りの、高さ90mを超す塔が次々に建てられたのです。14世紀の多い時で180もの塔が立ち並び、ボローニャは百塔の街として、ヨーロッパ中にその名を知られていました。
貴族たちの間では、高い塔を作れる家ほど裕福とされ、まさに富と権力の象徴となったのです。現在も幾つかの塔が残り、ポルティコと同じように街を訪れる人の好奇心駆り立てる名物となっています。

モーツァルトとマルティーニ音楽院

ボローニャ大学の主な施設が集中するザンボーニ通りの傍らに、ひっそりと建つ音楽学校があります。マルティーニ音楽院です。
マルティーニという名前は、この学校を開くきっかけとなった中世の偉大なる音楽理論家の名前。「マルティーニ神父」として世界的に知られています。
そのマルティーニ神父の元に、1770年、ある一人の少年が訪ねてきました。その名は、ウォルフガング・アマデウス・モーツァルト。当時まだ14歳でした。未来の大音楽家は、父に連れられてボローニャにやってきたのでした。
そして、マルティーニ神父の元で、音楽理論を学び、当時最も権威のある音楽協会の認定試験に見事合格。その名がヨーロッパ中に知られるきっかけとなったのでした。モーツァルトにとって、ボローニャは、偉大な人生のページをひらくきっかけとなった街だったのです。
現在でも、音楽院には、マルティーニ神父の精神を受け継ぎ、未来のモーツァルトを目指す若者たちが、日々、その芸術の追求に励んでいます。

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