これまでの街歩き

ショプロン/ ハンガリー

2006年9月12日(火) 初回放送

語り:中村梅雀

撮影時期:2006年6月

世界地図

地図

場所

2000年前のローマ帝国時代から、当時のメインストリート琥珀(こはく)街道に面していたショプロンは通商の街として栄えました。そのときの名は“スカルバンティア”。
ハンガリー帝国建国後、ショプロンと名を変えてからもこの街は、主要都市の一つとして栄えました。異民族の侵略から街を守るために街を囲むように城壁が築かれ、その中で貴族たちが華美な建築を作りました。1676年には街を大火災が襲い、中世の街は17世紀から18世紀にかけ美しいバロック様式の建物に生まれ変わりました。
2000年前からの歴史が積み重なって街に残るショプロン。歩けば道のそこかしこに古い時代の断片を見つけることができます。

Information

開かれた国境

ショプロンはオーストリアに丸く突き出した街。どの道もオーストリアにつながる国境の街です。今は静かなこの国境ですが、米ソ冷戦時代には、隙間なく鉄条網がしかれ、ヨーロッパは東と西に分断していました。
しかし1989年8月19日、このショプロンで国境が開かれ、東ドイツ市民たちが西へ渡る事件が起きました。それを後押ししたのは、ハンガリーの民主化を進めていた有志たちや政治家。ベルリンの壁崩壊に先駆けたこの事件は東西が1つになるきっかけでした。
小さな街の静かな国境。ほんの10数年前、ここが歴史の転換点となったのです。

忠誠の街

街のシンボル“火の見の塔”の下にはレリーフがかかった門があります。その名も“忠誠の門”。この名がつけられたのは1921年。第一次世界大戦のあとのことです。戦争前ハプスブルグ家のもと1つの帝国だったオーストリアとハンガリー、敗戦によって国は2つに分かれます。このときハンガリーは地理的に近いオーストリアに編入されることになっていました。
しかし市民たちは、それに異議を唱え、住民投票を行い、ハンガリーに残ったのです。
“忠誠の門”とかかったレリーフには、この街の愛国の思いが込められていたのです。

採石場

細かな彫刻が施された三位一体像、旧市街を飾る色とりどりのバロック建築、塔が高く上にのびる山羊教会・・・ショプロンには様々な時代の遺産があります。そのほとんどが石で作られたもの。
街から車で10km、国境に近い場所に“フェルトゥーラーコシュ”という採石場があります。ショプロンの建築や彫刻にはローマ時代からこの石切り場の石が使われたそう。エジプトの神殿を思わせるような内部。現在ではコンサートも開かれるそうです。

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