これまでの街歩き

パナマ/ パナマ共和国

2010年6月27日(日) 初回放送

語り:中村獅童

撮影時期:2010年4月

世界地図

地図

場所

中米・パナマ共和国の首都、パナマ。太平洋と大西洋、そして南北アメリカ大陸をつなぐ地理的重要性から、16世紀にはアメリカ大陸におけるスペイン植民地の拠点として繁栄しました。
その後、スペインやコロンビアからの独立をへて、1999年、それまでアメリカに管理されていた運河のパナマへの返還を機に、全土に主権を有するようになり、新しい「パナマ」が誕生しました。
ヨーロッパ風の古い建物がぎっしりの旧市街には、今も昔も大統領官邸が置かれ、パナマの中心になっています。一方、たくさんの高層ビルが建ち並ぶ新市街では、世界中から来たビジネスマンが働いています。新旧ふたつの顏をあわせ持つパナマは、今も昔も世界の交差点なのです。

Information

ミ・プエブリート

パナマ郊外には「ミ・プエブリート(=私の村)」という民族遊園地があり、ここを訪れると、パナマが“人種のるつぼ”であることがよくわかります。遊園地には、先住民エリア、植民者エリア、アフロエリアなどがあります。
先住民エリアでは、先住民であるインディオの村を再現。ジャングルの奥地に住んでいた彼らは、植民者に追われカリブ海の島に移り住みました。キビの茎で造った壁にヤシの葉で屋根をふいた家、独特のダンス、カラフルな民族衣装…。衣装や布に縫い込まれた熱帯のキレイな花やチョウや鳥がとてもステキです。スペインから来た植民者のエリアでは、当時の教会や学校、市役所、床屋さんなどが再現されています。ここでは、女性の髪飾りに注目を!花びらのように見える部分、実は魚のうろこで作られています。アフロエリアでは、アフリカから連れてこられた黒人たちの教会などを再現。植民者たちの教会と比べるととても質素…。でも、彼らには「カリプソ」と呼ばれる音楽がありました。部族が異なる黒人同士のコミュニケーション手段として始まったカリプソ。切ない感じのメロディーが、一度聴いたら頭を離れなくなるぐらいステキです。
パナマの文化がたくさんの民族によって成り立っていることがわかるこのミ・プエブリート。入場料はなんと無料!民族同士が仲良くなるのにお金はいらないということなのかもしれません。パナマにお越しの際は、ぜひ訪れてみてはいかがですか。

パナマビエホ遺跡

現在の旧市街ができる前に、実はパナマにはもうひとつ古い街がありました。「パナマビエホ」です。「ビエホ」とは、英語で「old」、つまり“古いパナマ”という意味。16世紀、スペインが太平洋岸で最初に築いた植民都市です。
パナマビエホは1519年から1671年までしか存在しませんでした。カリブ海を根城にしていた海賊、つまりパイレーツ・オブ・カリビアンによって襲撃されてしまったのです。防御にあたった2000人の街の男たちに対して、1200人の屈強な海賊が襲ってきました。カリブ海側から陸路で侵攻され、街は壊滅。そして住民は廃虚となった街を捨てて、今の旧市街に新しい街をつくったのでした。周りを海に囲まれた見晴らしのいい半島に現在の旧市街があるのは、もう二度と海賊に襲われないよう、街を守りやすくするためだったのです。
パナマビエホには街のシンボルだった大聖堂などが遺跡として残っており、1997年、旧市街とともに世界遺産に登録されました。

パナマ運河

“パナマ”と聞いてまず思い浮かぶのは「パナマ運河」ではないでしょうか。カリブ海と太平洋を結んだその全長はなんと約80キロメートル!
パナマの川と湖を利用してつくられた運河は、2つの海の海面差を3か所の水門で調整しています。まず、船が入ってくるとうしろの水門が閉じられ、巨大なプールができます。プールの水がみるみるうちに抜け、約8分で水位が下がると、前の水門が開き次の水路へ進む…というシステムなのです。
アメリカによって建設されたパナマ運河は1914年に開通し、人類史上最大の土木工事と言われました。100年前の技術が今も変わらず機能しているなんて本当に驚きです!1999年に運河はパナマに返還されています。
また、運河の通航料は、船の重さなどで決まり、コンテナを満載した貨物船の場合は、およそ20万ドルにも達します。昔、運河を泳いで通った強者の冒険家がいましたが、その人は体重をもとに算出された通航料36セントを支払ったそうです。
しかし、ジャングルを切り開いてつくられたパナマ運河には、たくさんのワニがいます。みなさんは、決して泳がないでくださいね!

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