これまでの街歩き

揚州/ 中国

2011年4月20日(水) 初回放送

語り:矢崎 滋

撮影時期:2011年3月

世界地図

地図

場所

江蘇省揚州市は、人口およそ500万。中国内陸部の地方都市です。隋の時代、北京と杭州を結ぶ「京杭大運河」が皇帝・煬帝(ようだい)によって築かれ、その運河と長江がちょうど十字に交わる所に揚州があります。
唐の時代には国際貿易港として運輸・通商の要衝となり、繁栄を極めました。そのころは江南地方随一の大都市で、日本の遣唐使も、唐の都・西安に出向く際にこの街に上陸したといわれています。鑑真和上が日本に渡る前に住職を勤めていた大明寺も揚州にあり、空海、最澄も訪れました。今回紹介する旧市街は、明・清の時代の街が基礎になっています。当時は塩の取り引きが盛んでしたが、今も塩商人が築いた庭園「個園」などが残っています。

Information

揚州大学料理学部

揚州大学には、中国の大学で初めて設立された料理学部があります。中国料理だけではなく、西洋料理から製菓までさまざまな学科があり、調理の技術、歴史、栄養学など総合的な研究が行われています。揚州料理は、宮廷料理の代表でもある「満漢全席」の元にもなった伝統のある料理。素材本来の味を引き出した優しい味わいです。
学生たちは、日本でも有名な揚州炒飯など、揚州料理の技術を日々磨いています。包丁さばきを習得するため豆腐を薄く切ったり、砂を入れて鍋ふりの練習をしたり…。最近では、揚州大学と企業が共同で料理ロボットの開発も行いました。料理ロボットの鍋ふり、その技はいかに…?

大明寺と鑑真

揚州旧市街の北西に大明寺があります。大明寺は、鑑真和上が日本に渡る前に住職を勤めていた寺です。鑑真は遣唐使の要請を受け、五回の渡航失敗と失明という苦難の末に、日本に渡り、仏教の戒律を伝えた高僧です。鑑真は日本で亡くなりましたが、1980年、奈良・唐招提寺の鑑真和上坐像が大明寺に“里帰り”しました。これは、唐招提寺の申し出を来日していた小平氏が受け、実現したものです。中国では北京と揚州で展示され、100万人が拝観したといわれています。このことが、文化大革命などで途絶えていた仏教復興の火付け役となりました。
毎年、大明寺から僧侶が仏教の勉強のために日本を訪れています。そのため、寺では日本語の授業なども行なわれています。鑑真は、日中友好のシンボルとして脚光を浴びているのです。

揚州銭湯

揚州は銭湯の多い街。狭い家の中に浴室設備がない場合が多く、みんな銭湯に通うのです。揚州における銭湯の始まりは、交易のため揚州に来ていたアラブ商人の影響だともいわれています。日本の銭湯との大きな違いはふたつ。ひとつは、休憩室があること。一人一台のベッドをあてがわれ、そこで日がな一日お茶を飲みながら他の客と談笑して過ごす人も多いのだとか。もうひとつは、マッサージや足の手入れなどさまざまなサービスが受けられること。特に「修脚」と呼ばれる足の手入れは、刀一本で、タコや魚の目などを治療する専門技術が受けられます。サービスは追加料金で受けられます。熱い男の世界を体験したい方は、一度試してみてはいかがでしょうか。ちなみに男性用は浴室がある場合がほとんどですが女性用はシャワーのみということが多いようです。

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